拳銃で撃たれて普通に死ぬ怪人は弱いのか?重火器で武装した十数人相手に一人で戦い相討ちに終わる怪人は強いのか、それとも弱いのか?またシャドウムーンも(対怪人とはいえ)敗れる姿が何度か描かれ、圧倒的な強さを持った存在ではないことがうかがえる。
このように、幅こそあるものの、仮面ライダーBLACK SUNで描かれる怪人たちは、生身の人間単体よりは強そうだが、その強さはどうにも中途半端な印象を受けるものとなっている。そのことについて、少し私見を述べておきたい(全体についての感想は「仮面ライダーBLACK SUNの感想:複雑性の時代におけるアンチカタルシス」を参照)。
まず、先の対人間で武装した数十人を容易く殺せるような強さだったと仮定してみよう。するとそもそも、ダロムたちゴルゴムが人間と手打ちをした説得力がかなり弱くならないだろうか?
1972年の集会にいる面々全てが怪人ではないにしても、100名程度はいそうである。仮に先の話から「一人で武装した十数人を圧倒できる」との基準にすると、彼らが徒党を組んで戦えば、2000~3000名を容易に圧倒できる計算となる。
となれば、催涙弾やら毒ガスにどの程度耐性があるかにもよるが、制圧には対人を遥かに超えたレベルの兵器が必要となり、戦車やミサイル(個人に扱えるものでも対戦車ライフルなど)を使わねばならないという理屈になるだろう。そして思うのだが、怪人が戦車と市街戦をやっている様は、むしろあまりに非日常すぎてリアリティが感じられない、という現象が視聴者に起きるように思うのは私だけだろうか(まあそれをさらに突っ込んで、「戦後の日本社会でそんな市街戦ができるはずもない」というロジック[?]から、そういう全面戦争にならないよう怪人と政府の間で手打ちが成立する、という説明もできなくはないが、かなりアクロバティックな印象だ)?
こういった想定を踏まえると、いささかモヤモヤする怪人たちの「微妙な強さ」とは、ある程度必然的な物語展開上の要請から生まれたものと言えるのではないだろうか?そうしなければ、怪人の強さとそれへの対処法はあまりに「ファンタジー」化してしまい、例えばロメロの映画「ゾンビ」のキャラクターたちが人間時の習慣を残している(全く異質な化け物ではない)から恐怖を感じさせたりするようなこともなく、「人間と怪人のどこに境界線があるんだ?」という本作の主張も単なるお題目と化して説得力を(より)失っていたのではないかと思うのである(一応「強さの説明が不足している」という視点での評価もできなくはない。しかしそれとて、何をどこまで解説していれば話の流れを停滞させることなく説得的な強さになったのか?については大いに疑問であって、むしろ泥沼化しただけではないかと思う)。
もちろん、「マーべルシリーズ」のような作品があることは承知しているが、それよりもむしろ「ビースターズ」的な境界線の曖昧さの中で共生を模索する(闘争する)という本作の性質上、繰り返しになるが、その「微妙な強さ」は必然的な帰結だったと思うのである。
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