ビースターズ:「裏市」が問いかけるもの

2019-11-24 12:12:47 | レビュー系

先週は体調不良と仕事で見れなかったため、一週遅れでビースターズ第6話を視聴。

 

前回予測した通り、第五話と対照的に感情を強く表に出す場面が何度か出てくる。特にレゴシは、これまで気怠げに聞こえる喋り方だった分怒りを込めた声が非常に印象的で、とても戦略的な演技指導がなされていることがうかがえる。加えて、本能に訴える「匂い」は明確な形を持たず、ゆえに否応なく身体を浸食するものとして描かれる一方、ビルたちへのレゴシの怒りは理性に基づいたものだと視覚的にわかるようになっている点も巧みだと感じた(後者と対照的なのが、ハルに対して暴走した時の血が全身をかけ巡るシーン)。

 

これについては、演劇であれだけの事が起こったにもかかわらず、ビルが悪びれもせず平常運転なのとレゴシの様子が二項対立的なのも改めて上手いなあと思った次第(この辺、ビルが単なる悪役じゃなくていわゆる「憎めないヤツ」なのもこの作品の方向性的に重要な部分だ)。その点については、アオバの登場も大きい(彼は私が原作でも特に好きなキャラのうちの一人だ)。彼はビルとレゴシの中間的な存在としてアクセントを与えているが、真ん中=優柔不断とかいうことではなく、きちんと自分なりの理屈があってその位置にいる、芯のあるキャラクターとして描かれている。ビルが公の場で人目を憚らずセックスの話をし、アオバには彼女がいて(第6話では言及されないが)、レゴシはDT臭を漂わせている、という三者三様の立ち位置も合わせて、面白い描き分けである(そして個人的には、それがすごく説得力のあることに感じられる)。

 

というわけで登場獣物を中心に書いてきたが、第6話におけるもう一つの大きな転換は学外の描写である。これまでの描写は、学校内という閉鎖空間であるがゆえの息苦しさや病理(とまで書くと行き過ぎなくらいには、オブラートに包まれているが)もある一方、そこに限定されているがゆえにレゴシ(たち)の葛藤はビルディングスロマン的な個別性とそこから解放されうるという希望があった。そして実際、6話の前半でレゴシはそれを感じてバランスの取れた社会に解放と羨望の眼差しを向ける描写がなされている。

 

しかしご存知のように、後半でその世界の描写は反転する。それが「裏市」という名の欺瞞によって支えられたものだと知らされるからだ。ここにおいて、レゴシの葛藤は、内省的な彼の個人的性質の強いもの+それを乗り越える成長物語的性質から、より普遍的・継続的なものであることが示される(そしてすでに7話も放送されていることを踏まえて書くなら、4・5話のポリコレ的言説と、その中心にあのルイがいて、しかも彼がそれを5話で「建前上のもの」として視聴者にわかるようにプレゼンしているというのは、どう控えめに評価しても「神展開」としか言いようがない)。また、裏市でレゴシがゴウヒンに捕まるのは、その後の展開上というのもあるだろうが、彼の置かれた状況が、他の症例も見せられることでどう社会的に位置づけられるのかを示す、という意味合いも強いと考えられる。

 

ビースターズ6話自体の話はネタバレもあるのでここまでにしておくが、私がこの回を極めて重要だと思うのは、これこそ(ビースターズの世界が連想させるであろう)「ズートピア」の描かなかったものだからである。もちろん、ズートピアがあえてビースターズのような欺瞞もしくはノイズを描かなかったのには、それなりの理由があるだろう。たとえば、ビースターズ6話に寄せられた海外のコメントの中には、「こんなにも葛藤に満ち溢れているのならば、この社会は一体どのように成り立っているのだろうか?」という疑問もあったようだから。ディズニーという子供を意識したメディアで、かつ二時間という制約の中で見せていくには、この欺瞞・ノイズはあまりに厄介な代物である。

 

それは一見すると、単なる設定上・世界観の問題に思えるかもしれない。しかし、私はむしろこのような欺瞞や葛藤こそ、我々の社会にも通じるという意味で非常に普遍的なことだと考える。たとえば、私たちはなぜ犬や猫を愛でてその殺害を憎みながら、日々豚や牛を食し、かつ捨てさえするのだろうか?それは単に、「習慣」の問題であり、論理の問題ではない。あるいは、ある者たちはクジラやイルカを獲るべきでないとして、その理由を「賢いから保護すべきだ」などと言う。全く虫唾の走る欺瞞であって、突然変異種のサル如きが生命の優劣について語るなど思い上がりもはなはだしいと言いたくなるが(ここには「自然保護」なるものの恣意性もよく表れている)、要するに我々人間なるものの社会がそも矛盾と欺瞞に満ち溢れており、それを強引に論理的に整合性のあるように説明しようとすれば、さらなる欺瞞が吐き出されるだけだ、ということである(ちなみに、私は別に採食主義者を肯定はしない。というのも、動物と植物に截然とした区別が存在し、後者の棄損は前者のそれよりマシであるというのは、単に「苦しむ姿を見なくて済むがゆえの罪悪感の少なさ」を正当化するための詭弁にすぎないと私には思えるからだ。もちろん、念のため付言しておくなら、かつてとあるアメリカの女性キャスターが述べた「私達人間には地球をレイプする権利がある」などという発言もまた、妄言以外の何物でもない)。

 

これに対し、「ビースターズの場合は作中で社会的に対等と位置付けられている草食と肉食の間の話であって、現実の人間と動物という非対称な関係性と比べるのは誤りではないか」という反論が出るかもしれない。しかし、例えば私が次の毒書会に向けて再読している『反知性主義』にちなんでアメリカの話をすれば、人間と人間でも「マンディンゴ」で描かれる白人と黒人奴隷の社会(そしてそれは、そんなに昔の話でもない)を思い出すことができるし、また前回の毒書会で話題に出たが、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』で描かれる、臓器移植のために生み出された子どもたちを連想することもできよう。なるほど後者はフィクションだが、しかし現実にも、新疆ウイグル自治区の弾圧と闇臓器売買ルート、あるいは貧困のために臓器を売る人々のこと(その一部が描かれるのが『復讐者に憐れみを』である)を思えば、それに類似した現象はすでに存在しているのであり、まただからこそ、この作品が人を戦慄せしめるのではないだろうか。

 

ともあれ、今述べたような現実に向き合った時、裏市の描写こそがむしろ実情であって、ズートピアはノイズの排除されたテーマパークに過ぎないことは論を待たないだろう。そして、ただのポリコレ的お題目を述べるのではなく、身体性に立脚したドラマを提示するビースターズという作品の真骨頂が現れているという意味で、第6話は極めて重要な意味を持つと述べつつ、この稿を終えることにしたい。


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