街のサンドイッチマン:それが象徴する時代

2020-07-03 11:36:53 | 感想など

といってもお笑い芸人の話ではなく、昭和28年の歌である。

 

 

 

私がこの歌に出会ったのは家がカラオケセットを買った小学4年の時だが、子どもながらに「なぜこういう存在をテーマにしたのだろう?」と不思議に思ったものだ(この他「百万本のバラ」などもそれにあたり、当時は自己満足的な愛情表現を元にして何を訴えたいのかよくわからず困惑していた)。

 

まあとはいえ、スローテンポで口ずさみやすいので、テレサ=テンの「つぐない」などとともに時折カラオケで歌っており、平成の時代に(戦後間もなく発表された)大人の悲哀をテーマにした歌を口ずさむ小学生が爆誕した次第であるw

 

さて、時は流れて成人した後、ふとしたきっかけでこの歌にはモデルがいるらしいと知った。それは海軍大将高橋三吉の子息高橋健二であり、父がA級戦犯となった煽りで自身も勤務先を解雇され、糊口をしのぐためサンドイッチマンに身をやつしていたところ、その立ち居振る舞いがとてもその職業らしからぬということで衆目を集め、取材によって明らかになったものらしい。

 

なるほどその情報通りだとするならば、この「街のサンドイッチマン」は、その仕事自体の悲哀のみならず、かつて栄華を誇った人々が今や「賤業」で生きていかなければならぬ時代の移り変わりを暗示した歌、ということになるだろう(こういう「時代の変化と職業」というテーマ自体は、映画「ロジャー&ミー」「トウキョウソナタ」など比較的よく見られるものである)。

 

こういった背景が当時の人々にどの程度共有されていたか、詳らかには知らない。さりながら、ほぼ同時代の横溝正史作品、例えば『獄門島』などは当時の因習だけでなく、先の大戦とその影響(例:徴兵や復員詐欺)を背景としており、ベストセラーとなっている。このような事情を踏まえれば、明確に意識はされなくとも人々の「時代精神」と重なり合い、この歌が長く残る理由の一つになったとは言えるのではないだろうか。

 

 

余談

先に述べた「百万本のバラ」の元は周辺国に翻弄されるラトビアの歴史的悲劇を唄った「マーラが与えた人生」が後にロシアへ伝わってアレンジされたものであり、またテレサ=テンは「つぐない」に直接関係こそないが、台湾の高官の娘として数奇な運命を辿ったことを後に知って興味が湧いた、ということがある。

「マーラが与えた人生」をアレンジしたロシアもまた、ラトビアを蹂躙した主要国の一つであるのは何とも皮肉だが、ラトビアの歴史を学んでいると、これまた周辺国の支配に喘いだという印象の強いポーランドが、ラトビアのような国にとっては支配者、つまり「加害者」的側面を持っていたことを知り、歴史の複雑性に思わず唸らずにはいられなくなる(もちろん、そもそも現在の国民国家の枠組みを無限定に過去へ遡及していくこと自体が、多分な危険を孕んでいるとも言えるのだが。それは例えば昨年訪れたウズベキスタンにおいて、出自が現代ウズベク族と繋がりがあるわけでもないジャラールッディーンがモンゴルと戦った民族的英雄として祀り上げられることの奇妙さにも通ずる)。

これは、コソヴォ紛争を通じてセルビア人の民族浄化を知っている人はそれなりにいる一方で、第二次大戦でクロアチア人がセルビア人に同様の行いをしたことはあまり知られていないのと似ている。かかる複雑な歴史を知れば、「善ー悪」の単純な二項思考などできようはずもないだろう。

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