さて前回の「サブキャラシナリオへの評価をめぐって」では私のサブキャラシナリオへの評価(あるいは視点)が変化した過程について述べた。そこで大方の背景は説明したので、ここでは今現在、すなわち<後期>におけるサブキャラシナリオの評価に絞って書いていくこととしたい。とはいえ、前掲の記事も多くのリンクを含めると膨大な量になるため、要点だけ確認しておこう。
鳴海孝之とは一回性(=反復不可能性)に強く縛られる存在として描かれており、この点いくらでも行動様式(時に背景すら)が変化しうる「白紙の主人公」とは一線を画している。ところで、そのような鳴海孝之に対する「ヘタレ」や「感情移入できない」という評価はこういった従来型の主人公との相違が少なからず影響していると考えられる(インタラクティブ性の問題、と言いかえることも可能)。さてこのような受容分析を経た上で、出てくる主な意見・反論は次の二つであると考える。すなわち、
1.
孝之が「選べない人間」なんだと割り切ればいいのだな。
(「選べない」ことを仕様として考える)
2.
サブキャラシナリオにおける鳴海孝之は「白紙の主人公」の最たるもので、脈絡のない行動を連発する(つまりメインのそれと相反する)。そのような矛盾する要素を共存させていることに問題があるのではないか?
これらはもっともな反応だと思うが、今回の目的はサブキャラシナリオの位置づけを再検討することで反論への解答を提示すると共に、より踏み込んだ結論へと到ることにある。その点を意識して読んでいただければと思う。
<後期> サブキャラシナリオ=「白紙の主人公」へのアイロニー
前期において私は、サブキャラシナリオをメインシナリオからの「逃げ道」と認識していた。それが中期では(ある程度)確信犯的に用意されたもので、もっと言えば懲罰的だとさえ考えるようになった(とはいえ、サブキャラシナリオが「逃げ道」で、かつうまく機能していないという認識が消えたわけではなかった。これはあゆ・まゆシナリオの方向性が今一つ分かりづらかったことも関係している)。しかしながら、そのような形でサブキャラシナリオに言及しているレビューは管見の限り存在しない…そういった状況を鑑みて、孝之=「ヘタレ」という評価を恋愛ADVの形式に影響されたものとして分析することにした、という話はすでに述べたとおりである(かつての「感情移入型」「感情理解型」というような分け方も、こういった視点に連なるものであった)。
こうして、鳴海孝之が「ヘタレ」と評価される理由を孝之とプレイヤーの認識の齟齬、より詳しく言えば生を一回的なものと捉えるがゆえに選択に躊躇する孝之と、選択可能性(という恋愛ADVの形式)に慣れきっているがゆえに選ぶことを大して重要だと思わないプレイヤー(だから「なぜ選択肢が存在しないのか」に対する考察が生まれない)の間に横たわる差異に求める「孝之が「ヘタレ」と評価される要因」を書くこととなったわけである。この後嵐山へ行った際「なぜ「感情移入できない」のか」、「レビュー回顧」まで構想できたのだが、その時引っかかったものこそサブキャラシナリオであった。
いくら孝之の特徴が一回性だ選択不可能性だと言ったところで、サブキャラシナリオが選択可能性(様々なキャラが選べる、第一章の文脈をかなり無視した行動ができる)を特徴としている以上、それが全体に共通する特徴とは言えないのではないか?少なくとも、サブキャラシナリオが一回性や選択不可能性といったものを阻害し、中途半端な主人公像になってしまっているのではないか……かつて「感情理解型」と「感情移入型」という二項対立構造で考えたものが、また再び問題として持ち上がったわけである。
しかし、よく考えてみるとこのような見解はおかしい。かつての「エンディングから見た君が望む永遠の性格」という記事の問題意識とも通じるが、サブキャラシナリオには基本的にバッドエンドしか割り振られていない以上、サブキャラシナリオとメインシナリオを等価なものと見なすことには問題があるからだ(ちなみに言っておけば、推理モノなどであれば真相に到るエンディングとそれ以外といった位置づけは自然なものだが、様々なキャラを攻略できることが売りの恋愛ADVにおいては特異である)。いやもっと言えば、サブキャラシナリオはメインのオルタナティブ(代替物・選択肢)と位置づけることさえ不適切なのではないか?
なぜそのような疑問が湧くのか。
もしサブキャラシナリオが「選べない」メインシナリオの「逃げ道」(オルタナティブ)として用意されたのなら、そこには(メインでイラついた分の欝憤を晴らすために)カタルシスが組み込まれていると考えられるからだ。少なくとも、プレイすることで違和感が増幅されたり不快感が喚起されたりするような構造は避けるだろう。にもかかわらず、サブキャラシナリオには不快な要素が散りばめられていて、とてもカタルシスを得たり「選べない」不快感を忘却したりできるような構造にはなっていない。例えば星乃シナリオでは、「手を出したことに対する懲罰」という性格が明確に見てとれるし(「星乃エンドの意味」)、穂村シナリオにいたっては逆監禁を通じてプレイヤーにある種のトラウマを植え付けたとさえ言われるものであって、カタルシスどころか不快感とストレスを増大させるような内容になっている(豊胸手術をした「タカユキちゃん」を穂村が承認するシーンにおいて、感動的な場面に使われる「誰にでもある明日」が流れた時、そこに製作者側のアイロニー、いや強い悪意さえ感じた人もいるのではないか)。また「天川蛍シナリオの意味」では「蛍シナリオは唯一、人が死ぬシナリオとして全体の中で重要な意味を持っている」という趣旨のことを書いているが、それでも蛍のような人が看護婦として働いていること、また彼女と脈絡なくSEXすることへの違和感は拭いがたいものである(「蛍シナリオの問題点」、「蛍シナリオ斬り」)。あゆ・まゆシナリオについても同じことで、遥や水月、茜(といった環境)からの逃避先としてであればあのような突拍子もないキャラ・ビジュアルはおもしろいものだが、シリアスな恋愛の対象としては、メインに比べた時あまりに歪で、とうてい代替物とはなりえていないと言えるだろう(なるほど恋愛ADVは様々なキャラを攻略できるという性質を持っており、彼女たちのようなロリキャラが攻略の対象となることは必ずしも不自然とは言えない。しかし、第一章も含めた孝之の行動原理の規定、メインシナリオのキャラ達との対比[あえて言えばスタンダードと色モノ]、さらに彼女らの色モノ性を意識した発言[孝之いわく「ちんちくりん」]が出てくること、妹キャラという位置にはすでに茜がおり、ロリキャラというカテゴリーで考えても蛍がすでに存在しているetc...といったことをふまえれば、君が望む永遠という作品の中において、やはり彼女らのシナリオは不要かつ不自然なものである)。
以上のような内容に加え、最後は(蛍シナリオを除いて)全てバッドエンドなわけである(穂村ハッピーについては後に触れる)。このような事実をもとに改めて繰り返すが、サブキャラシナリオをメインの代替物(「逃げ道」)と位置づけることは困難である。とするならば、私はずっととんでもない勘違いをしてきたのではないか?もしサブキャラシナリオが、はじめから「間違ったもの」として用意されていたのだとしたら…そう考えた瞬間すべてが反転した。
サブキャラシナリオにおいて孝之の行動に脈絡がないということ、かつまたそのような振舞が「白紙の主人公」に類似しているということは何度も指摘してきた通りである。しかしそれが「間違ったもの」として位置づけられているのだとしたら…言い換えれば、一回性と選択不可能性を特徴とするメインシナリオの後に選択可能性と脈絡のなさを特徴とするサブキャラシナリオが「間違ったもの」として提示されるという構造なのだとしたら…このようにメイン・サブ双方の特徴・位置づけを捉えた上で考えると、出てくる結論は「白紙の主人公」という形式への強烈なアイロニーである。それは今までの文脈、状況を無視した「白紙の主人公」への、もっと言えば、そのような行動様式のグロテスクさを本質的には理解していないプレイヤーたちへの強烈なアイロニ―になっているのである。つまり、サブキャラシナリオは「逃げ道」などではなく、それどころか「逃げた」人間に止めを刺すためのシナリオとなっているのである。とはいえ、私はそのような仕組みが全て製作者側の計算づくだった、と言うことには躊躇いを覚える。それは設定資料集などに書かれていないといった事情もあるが(まあ書かれていたらこんな膨大な記事を書く必要もないわけだが)、DVD specificationで水月奴隷エンドや穂村ハッピーエンドを追加したりもしているからだ(これが読者の声に対する製作者サイドの「妥協」なのか、にわかには判断しがたい)。また、このような結論に対し「それは考えすぎだろ」といった風に感覚的に反発を覚える人がいることも多少は理解しているつもりだ。よってここでは、(計算づくかどうかはともかく)「結果として」サブキャラシナリオは「白紙の主人公」のグロテスクさを浮き彫りにし、それを(半ば)自明の形式として享受していたプレイヤーに「結果として」強烈なアイロニーを突き付ける内容となっている、と言うに留めておこう。
以上見てきたように、それが意図的なものであれ偶発的なものであれ、サブキャラシナリオは恋愛ADVに特徴的な選択可能性や「白紙の主人公」をあざ笑うような、アイロニカルな内容となっており、メインシナリオの一回性・選択不可能性と見事に連動しているのだが、このような見地に立った時、鳴海孝之に対するプレイヤーの反発は、むしろ「正しく」、必然的なものとすら思えてくる(念のため繰り返すが、「質が低い」、「描き方が下手」、「そもそもなぜ選べない主人公を恋愛ADVの主人公にしたのか」といった批評的、ないしは具体性のあるレビューは管見の限り存在しない)。というのも彼の行動様式が、恋愛ADVのプレイヤーが慣れ親しんでいる構造と「白紙の主人公」、つまり自分たちが拠って立つ土台を真っ向から否定するものになっているからである。そしてこのように考えると、普段は論理的に(エロゲーの)レビューを書いている人たちさえもが、孝之に対しては貧しい言葉しか投げつけられないというヒステリックな反応を示すのも理解できるのである。
さて結論に移ろう。
君が望む永遠のメインシナリオ一回性・選択不可能性を特徴としており、サブキャラシナリオは真逆の選択可能性を特徴とするが、後者は蛍シナリオを除いて全てがバッドエンドであること、穂村・星乃シナリオの懲罰的内容、あゆ・まゆ・蛍がメインのキャラと比べて明らかにネタ的存在(言動・ビジュアル)であることから否定的に扱われていると言ってよく、しかもそこでは主人公の行動の脈絡のなさというものがグロテスクなまでに描かれているため、結果としてサブキャラシナリオはメインシナリオの「ネガ」として、むしろ一回性・選択不可能性というメインシナリオの特徴(メインシナリオにおける「俺たちはゲームの主人公じゃない」という孝之の発言も想起)を補強するものとなっているのである。そしてそのような構造(別の言い方をすれば孝之の行動原理の特徴)が、選択可能性・「白紙の主人公」に慣れきった人たちの不快感を喚起し、孝之を「ヘタレ」「感情移入できない」と評価せしめる結果となったのはむしろ自然なことであったと言えるだろう。つまり、孝之に対する「ヘタレ」「感情移入できない」という具体性を欠いた評価は、いかに恋愛ADVの構造を自明のものとして受け入れているプレイヤーが多いかを暗に示しているのである。
くきゅくきゅ♪
鳴海孝之とは一回性(=反復不可能性)に強く縛られる存在として描かれており、この点いくらでも行動様式(時に背景すら)が変化しうる「白紙の主人公」とは一線を画している。ところで、そのような鳴海孝之に対する「ヘタレ」や「感情移入できない」という評価はこういった従来型の主人公との相違が少なからず影響していると考えられる(インタラクティブ性の問題、と言いかえることも可能)。さてこのような受容分析を経た上で、出てくる主な意見・反論は次の二つであると考える。すなわち、
1.
孝之が「選べない人間」なんだと割り切ればいいのだな。
(「選べない」ことを仕様として考える)
2.
サブキャラシナリオにおける鳴海孝之は「白紙の主人公」の最たるもので、脈絡のない行動を連発する(つまりメインのそれと相反する)。そのような矛盾する要素を共存させていることに問題があるのではないか?
これらはもっともな反応だと思うが、今回の目的はサブキャラシナリオの位置づけを再検討することで反論への解答を提示すると共に、より踏み込んだ結論へと到ることにある。その点を意識して読んでいただければと思う。
<後期> サブキャラシナリオ=「白紙の主人公」へのアイロニー
前期において私は、サブキャラシナリオをメインシナリオからの「逃げ道」と認識していた。それが中期では(ある程度)確信犯的に用意されたもので、もっと言えば懲罰的だとさえ考えるようになった(とはいえ、サブキャラシナリオが「逃げ道」で、かつうまく機能していないという認識が消えたわけではなかった。これはあゆ・まゆシナリオの方向性が今一つ分かりづらかったことも関係している)。しかしながら、そのような形でサブキャラシナリオに言及しているレビューは管見の限り存在しない…そういった状況を鑑みて、孝之=「ヘタレ」という評価を恋愛ADVの形式に影響されたものとして分析することにした、という話はすでに述べたとおりである(かつての「感情移入型」「感情理解型」というような分け方も、こういった視点に連なるものであった)。
こうして、鳴海孝之が「ヘタレ」と評価される理由を孝之とプレイヤーの認識の齟齬、より詳しく言えば生を一回的なものと捉えるがゆえに選択に躊躇する孝之と、選択可能性(という恋愛ADVの形式)に慣れきっているがゆえに選ぶことを大して重要だと思わないプレイヤー(だから「なぜ選択肢が存在しないのか」に対する考察が生まれない)の間に横たわる差異に求める「孝之が「ヘタレ」と評価される要因」を書くこととなったわけである。この後嵐山へ行った際「なぜ「感情移入できない」のか」、「レビュー回顧」まで構想できたのだが、その時引っかかったものこそサブキャラシナリオであった。
いくら孝之の特徴が一回性だ選択不可能性だと言ったところで、サブキャラシナリオが選択可能性(様々なキャラが選べる、第一章の文脈をかなり無視した行動ができる)を特徴としている以上、それが全体に共通する特徴とは言えないのではないか?少なくとも、サブキャラシナリオが一回性や選択不可能性といったものを阻害し、中途半端な主人公像になってしまっているのではないか……かつて「感情理解型」と「感情移入型」という二項対立構造で考えたものが、また再び問題として持ち上がったわけである。
しかし、よく考えてみるとこのような見解はおかしい。かつての「エンディングから見た君が望む永遠の性格」という記事の問題意識とも通じるが、サブキャラシナリオには基本的にバッドエンドしか割り振られていない以上、サブキャラシナリオとメインシナリオを等価なものと見なすことには問題があるからだ(ちなみに言っておけば、推理モノなどであれば真相に到るエンディングとそれ以外といった位置づけは自然なものだが、様々なキャラを攻略できることが売りの恋愛ADVにおいては特異である)。いやもっと言えば、サブキャラシナリオはメインのオルタナティブ(代替物・選択肢)と位置づけることさえ不適切なのではないか?
なぜそのような疑問が湧くのか。
もしサブキャラシナリオが「選べない」メインシナリオの「逃げ道」(オルタナティブ)として用意されたのなら、そこには(メインでイラついた分の欝憤を晴らすために)カタルシスが組み込まれていると考えられるからだ。少なくとも、プレイすることで違和感が増幅されたり不快感が喚起されたりするような構造は避けるだろう。にもかかわらず、サブキャラシナリオには不快な要素が散りばめられていて、とてもカタルシスを得たり「選べない」不快感を忘却したりできるような構造にはなっていない。例えば星乃シナリオでは、「手を出したことに対する懲罰」という性格が明確に見てとれるし(「星乃エンドの意味」)、穂村シナリオにいたっては逆監禁を通じてプレイヤーにある種のトラウマを植え付けたとさえ言われるものであって、カタルシスどころか不快感とストレスを増大させるような内容になっている(豊胸手術をした「タカユキちゃん」を穂村が承認するシーンにおいて、感動的な場面に使われる「誰にでもある明日」が流れた時、そこに製作者側のアイロニー、いや強い悪意さえ感じた人もいるのではないか)。また「天川蛍シナリオの意味」では「蛍シナリオは唯一、人が死ぬシナリオとして全体の中で重要な意味を持っている」という趣旨のことを書いているが、それでも蛍のような人が看護婦として働いていること、また彼女と脈絡なくSEXすることへの違和感は拭いがたいものである(「蛍シナリオの問題点」、「蛍シナリオ斬り」)。あゆ・まゆシナリオについても同じことで、遥や水月、茜(といった環境)からの逃避先としてであればあのような突拍子もないキャラ・ビジュアルはおもしろいものだが、シリアスな恋愛の対象としては、メインに比べた時あまりに歪で、とうてい代替物とはなりえていないと言えるだろう(なるほど恋愛ADVは様々なキャラを攻略できるという性質を持っており、彼女たちのようなロリキャラが攻略の対象となることは必ずしも不自然とは言えない。しかし、第一章も含めた孝之の行動原理の規定、メインシナリオのキャラ達との対比[あえて言えばスタンダードと色モノ]、さらに彼女らの色モノ性を意識した発言[孝之いわく「ちんちくりん」]が出てくること、妹キャラという位置にはすでに茜がおり、ロリキャラというカテゴリーで考えても蛍がすでに存在しているetc...といったことをふまえれば、君が望む永遠という作品の中において、やはり彼女らのシナリオは不要かつ不自然なものである)。
以上のような内容に加え、最後は(蛍シナリオを除いて)全てバッドエンドなわけである(穂村ハッピーについては後に触れる)。このような事実をもとに改めて繰り返すが、サブキャラシナリオをメインの代替物(「逃げ道」)と位置づけることは困難である。とするならば、私はずっととんでもない勘違いをしてきたのではないか?もしサブキャラシナリオが、はじめから「間違ったもの」として用意されていたのだとしたら…そう考えた瞬間すべてが反転した。
サブキャラシナリオにおいて孝之の行動に脈絡がないということ、かつまたそのような振舞が「白紙の主人公」に類似しているということは何度も指摘してきた通りである。しかしそれが「間違ったもの」として位置づけられているのだとしたら…言い換えれば、一回性と選択不可能性を特徴とするメインシナリオの後に選択可能性と脈絡のなさを特徴とするサブキャラシナリオが「間違ったもの」として提示されるという構造なのだとしたら…このようにメイン・サブ双方の特徴・位置づけを捉えた上で考えると、出てくる結論は「白紙の主人公」という形式への強烈なアイロニーである。それは今までの文脈、状況を無視した「白紙の主人公」への、もっと言えば、そのような行動様式のグロテスクさを本質的には理解していないプレイヤーたちへの強烈なアイロニ―になっているのである。つまり、サブキャラシナリオは「逃げ道」などではなく、それどころか「逃げた」人間に止めを刺すためのシナリオとなっているのである。とはいえ、私はそのような仕組みが全て製作者側の計算づくだった、と言うことには躊躇いを覚える。それは設定資料集などに書かれていないといった事情もあるが(まあ書かれていたらこんな膨大な記事を書く必要もないわけだが)、DVD specificationで水月奴隷エンドや穂村ハッピーエンドを追加したりもしているからだ(これが読者の声に対する製作者サイドの「妥協」なのか、にわかには判断しがたい)。また、このような結論に対し「それは考えすぎだろ」といった風に感覚的に反発を覚える人がいることも多少は理解しているつもりだ。よってここでは、(計算づくかどうかはともかく)「結果として」サブキャラシナリオは「白紙の主人公」のグロテスクさを浮き彫りにし、それを(半ば)自明の形式として享受していたプレイヤーに「結果として」強烈なアイロニーを突き付ける内容となっている、と言うに留めておこう。
以上見てきたように、それが意図的なものであれ偶発的なものであれ、サブキャラシナリオは恋愛ADVに特徴的な選択可能性や「白紙の主人公」をあざ笑うような、アイロニカルな内容となっており、メインシナリオの一回性・選択不可能性と見事に連動しているのだが、このような見地に立った時、鳴海孝之に対するプレイヤーの反発は、むしろ「正しく」、必然的なものとすら思えてくる(念のため繰り返すが、「質が低い」、「描き方が下手」、「そもそもなぜ選べない主人公を恋愛ADVの主人公にしたのか」といった批評的、ないしは具体性のあるレビューは管見の限り存在しない)。というのも彼の行動様式が、恋愛ADVのプレイヤーが慣れ親しんでいる構造と「白紙の主人公」、つまり自分たちが拠って立つ土台を真っ向から否定するものになっているからである。そしてこのように考えると、普段は論理的に(エロゲーの)レビューを書いている人たちさえもが、孝之に対しては貧しい言葉しか投げつけられないというヒステリックな反応を示すのも理解できるのである。
さて結論に移ろう。
君が望む永遠のメインシナリオ一回性・選択不可能性を特徴としており、サブキャラシナリオは真逆の選択可能性を特徴とするが、後者は蛍シナリオを除いて全てがバッドエンドであること、穂村・星乃シナリオの懲罰的内容、あゆ・まゆ・蛍がメインのキャラと比べて明らかにネタ的存在(言動・ビジュアル)であることから否定的に扱われていると言ってよく、しかもそこでは主人公の行動の脈絡のなさというものがグロテスクなまでに描かれているため、結果としてサブキャラシナリオはメインシナリオの「ネガ」として、むしろ一回性・選択不可能性というメインシナリオの特徴(メインシナリオにおける「俺たちはゲームの主人公じゃない」という孝之の発言も想起)を補強するものとなっているのである。そしてそのような構造(別の言い方をすれば孝之の行動原理の特徴)が、選択可能性・「白紙の主人公」に慣れきった人たちの不快感を喚起し、孝之を「ヘタレ」「感情移入できない」と評価せしめる結果となったのはむしろ自然なことであったと言えるだろう。つまり、孝之に対する「ヘタレ」「感情移入できない」という具体性を欠いた評価は、いかに恋愛ADVの構造を自明のものとして受け入れているプレイヤーが多いかを暗に示しているのである。
くきゅくきゅ♪
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