エレナ・ポーター『スウ姉さん』

2006-01-24 21:35:18 | 本関係
『少女パレアナ』で一躍有名になったエレナ・ポーター晩年(1920年)の作品。等身大の女性の生き方を描いた小説といった評価をされている。内容を大雑把に言えば、家業中心の生き方と音楽家の道の葛藤を描いたウーマンリブのお話。

まあそれはとりあえず、主人公スザナ(「スウ姉さん」)の弟ゴルドンや妹メイ、そして父親のジョンたちに「こいつら何から何までおんぶにだっこかよ!」と激しい怒りを覚えた。特に、スザナに面倒なことは全て押し付けるわ自分の銀行ぶっ潰して家族を窮乏させるわ、挙句に倒産のショックで痴呆になって家族(というかスザナ)に面倒をかけ続けたジョンはミンチにしてやりたいとさえ思った(オフレッサー症候群)。

とまあ一通り怒りを吐き出したところで考えると、おそらくこの怒りは計算されたものだろう。彼らに怒れば怒るほどスザナに同情するという寸法である。また、図々しくおんぶにだっこされながら感謝の念を抱こうとしない世間のゴルドンやメイに対する警句という意味合いも込められていると推測される。であればこそ、最後のスザナの変心が単なる現状の肯定や忍耐の奨励とはならないのだろう。つまり、スザナに対しては人の世話をして立派な人間に育てたり病人を看護することに追われる人生が「人の役に立っている」という意味で芸術の道よりも貴重だということに気づかせ、世話になっている者達に対してはそれへの感謝の念を起こさせることで、世話する側・される側双方に対して専業主婦的な役割の重要性を自覚させようとしているのである。こう書くと、「結局逆戻りで内容に意味がないではないか」という批判が出るかもしれないが、自分の生きていく前提を自覚すること、そして自覚した上で選び取った以上、無意識に専業主婦的生き方を選択した場合とは区別して評価すべきだと思う(専業主婦、あるいは家業を中心とした生き方そのものの是非はまた別に論じるべき問題)。スザナは音楽家の道と家業中心の生き方を自ら計りにかけた上で選び取ったのであり、現状に甘んじようとしたわけではないのだ。

ただ、スザナの行動がすんなり受け入れられるかと言えばそうではない。ゴルドンやメイのために何でも話を調停してあげたり相手の行動を受け入れる様子は、忍耐強いと言うよりは相手をダメにする過保護なやり方という印象を持つ。ただこれについては、最後にスザナ自身ではなく他者によってゴルドンやメイが自分たちの非に気づいたことを思えば、暗にスザナのやり方を批判する意図も含まれているのかもしれないが(つまり、スザナのやり方では彼らに自らの非を気づかせることができないという暗示の可能性がある)。

また、スザナがジョンの世話をする様子にも疑問を感じた。彼女は、「生命よりも大切な」父親を献身的過ぎるほどにしっかりと世話をするのだが、それにしては(痴呆になる前の)父親は世話されるに値する人物の如く描かれていないし、またスザナ自身がどうしてそこまで父親を大切に思うのかも記述がない。そのため、「看護婦を付けたほうがいい」といった提言が作中でされているのを見て、そちらの方がよほど妥当だと私は感じた(スザナは、ジョンが自分に世話されて喜んでいるのを受けて自分が世話することを主張するのだが)。ここから私は、父親の世話にかかずらって自分の人生を磨り減らしているスザナを暗に批判しているのだと推測していたが、どうもスザナの変心の元となる話からすると、作者はスザナの行動を評価する意図らしい(下半身不随の親の世話というエピソードが含まれているため)。だとするなら、ジョンの人格やスザナの介護態度は「こんな親でもしっかり看病しなければいけません。なぜって親ですから。」という意味になるように思われる。だから、そこは正直賛成できんなあと感じた。介護するにしても色々やり方はあるわけだし、(全く手伝おうともしない兄弟は論外として)スザナほど献身的になって自分の生活を犠牲にする必然性は感じられない。親の扶養という考え方も相対化しようとする意志の表れかと思っていたので、ありきたり過ぎた結論に期待はずれだった。

以上総評すると、「楽しむと言うより考えさせられる作品」だと思う。

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