
改めてよくできた作品だなあ。
正直なところ、恋愛ADVというものは登場人物は結局のところプレイヤーの多様な趣味に対応するためのショーウィンドウの域を出ない。とはいえそれゆえのキャラ付けはなされるが、被らないことが大事。テンプレ。せいぜいが記号的なものでしかない(呼び捨て、先輩、下僕とかかw)。もちろん映画でも小説でもあること。
自分の好みに合う悩める子たちを医者見習いという上の立場から救っていく。ついでに死んだり死にそうになったりすることでの感動付き。
意地の悪い言い方をすればそういう作品になる可能性を多分に秘めていた。
細かいところで関係性の描き方に配慮している。呼び方もそうだが、それが一つの目印になって朝比奈が主人公とつばさの関係性を認める演出。興味深い。
[原文]
このゲームは人の呼び方に強いこだわりを持って作られており、特に主人公に対する呼び方はキャラごとに違っているほどだ(美雨と朝日奈は同じだが)。しかもただ単に呼び方を変えているだけではない。例えば初日から大気が(久しぶりに会った)主人公を「裕兄」と呼び、反対に成長した大気を「大気ちゃん」と呼ぶ主人公を何度も注意(?)し、昔と同じく「大気」と呼ばせるシーンを見せるなど、呼び方へのこだわりはかなり強調されている。しかし一方で、その目的が何なのかは明示されていない(ビジュアルファンブックにおいても同様)。そこで以下、呼び方が違う意味について考えてみたい。
相手の呼び方というものは、普通に考えると(性格も関係しているが)相手との距離の取り方を表しているのだが、もう少し深く考えると「相手に期待する役割の表れ」という側面がある。作中に関して言うと、例えば医者・診療所嫌いの琴羽は主人公を「松井さん」と呼ぶ(先生とは呼ばない)。その一方で、「入院のプロ」を自称する白風は主人公を自己紹介した時から「先生」と呼び続けている(主人公がその呼び方は適切ではない、と言ったにも関わらずだ)。またつばさの「お兄ちゃん」は単に年上というだけでなく自分を預けることのできる存在としての期待が込められている。また大気は前述のように「大気」とわざわざ呼び捨てにさせるとともに主人公を昔と同じく「裕兄」と呼ぶが、これは昔の関係、すなわち幼馴染としての役割を主人公に期待しているのだと言える(その意味は、後半において明らかになる)。美雨の「松井くん」は見た目の違和感とともに後の伏線にもなっているが、とりあえず対等な関係を期待する呼び方であると言えるだろう。皆川空の「裕作」は役割の期待というよりも、彼女のざっくばらんな性格を象徴していると言ったほうが適切だと思われる(※)。
結論として、この呼び方の多様性に、主人公の役割の複雑さが表れている。つまり、診療所の患者を医者である主人公が治すという単純な役割ではなく、例えばつばさにとっては「兄」として、琴羽にとっては頼れる年上の人(?)として、相手の期待するもの、すなわち相手に足りていないものを埋めてあげながら一緒に病気と向かい合っていくことが期待されているのだ。そしてそれが、医大の一年生ゆえまだ診療に携わることのできない主人公ができる「お手当て」なのであった。つまり、呼び方の多様性とは、キャラクターの求めているものの多様性を示しているのであり、そしてその期待に応えていくことこそ、この作品の掲げる「お手当て」というテーマなのであった。
普通ならば、相手の呼び方はキャラの特徴を表す程度の効果しかない。しかしそれを、主人公の役割とストーリー展開、さらにはテーマの領域まで昇華したところが、このゲームの傑作たる所以の一つと言えるだろう。
※
そう考えると、メーに関しては、選択肢次第でいかようにも主人公の呼び方を変えれることで、彼女の人付き合いにおける無邪気さを表しているのではないか。つまり、人里離れて暮らしてきた彼女にとって、相手との距離の取り方だとか相手に何か役割を期待するといった思考が存在しないことを示したいのだと思われる。
なお、クマ先生と朝日奈の「松井くん」については特にコメントの必要はないと思う。あえて理屈っぽくなるのを恐れずに言えば、対等の関係を望む美雨の呼び方が「松井くん」だったことからすると、彼らもまた主人公を(お荷物ではなく)対等な存在として扱っていることを象徴しているのかもしれない)。
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