「『ヘタレ』に関する受容分析へ」から「サブキャラシナリオに関する断片2」にわたって、鳴海孝之の評価がどのようにして生まれたかを分析してきた。前掲の「サブキャラシナリオ~」でサブキャラシナリオに関する覚書は全て掲載したので、ここでは残った覚書を全て載せ、一応鳴海孝之の評価に関する記事の締めとしたいと思う(なお、特に編集していないので無関係な内容も混じっている)。
最後ということでいくつか補足をしておこう。
恋愛ADVという枠組みへの埋没(その様式をネタにはできてもきちんと客体化できてはいない)の話から、「ネタからベタへ」というしばしば見られる図式であるとか、各々の「正しさ」に引きこもるという今日的傾向(「大きな物語」の崩壊と連動)を連想する人もいるだろう。個人的には、大半のレビューには「AだからBはダメだ」という論理展開・考え方がなく、ただ単に「Bはダメだ」という底の抜けた表現がしばしば見られることがこの問題と深く関連していると考えている(説明不足、主人公に対する評価、中華料理屋の話などと繋がる。ただし、単純に感想として書かれるレビューも多数存在するという書き方の問題を無視すべきではない)。ちなみにこれは、DESIREのネタバレレビューにおいて、「なぜそれが問題なのか」という点をクローズアップした内容を書き、その上で批判に持っていく予定だった(引っ越しの時もやしもんなどの記事とともに散逸してしまい、いつ書くことになるやら…という状態だが)。
また「真版 なぜ「感情移入できない」のか」でも触れているが、君が望む永遠の内容が恋愛ADVのプレイヤーに馴染みにくいという事情も「ヘタレ」という評価の大きなファクターだと考えている。これは結婚や生活の問題がリアルに絡んでくるからだが(このようなメインシナリオの特徴を念頭に置くと、サブキャラシナリオにおけるあゆ・まゆたちとの会話がいかに従来の「恋愛ADV的」かがよく理解できるだろう→サブキャラシナリオの批判性)、そのようなしがらみによって選べなくなる姿を、大して束縛も受けない状況に慣れている人間は特に考えもせず「ヘタレ」と評価するだろうことは容易に想像できる。もっとも、かつて見た中年男性が書いたらしいレビューが、割と距離感を持って孝之を評価していた、という程度の具体性しかないため、このような切り込み方は印象論の余地を出ないわけで、ゆえにこれを主題に切り込む予定は今のところない(まあ直感的に当たっているだろうとは思うのだけど)。
あと、これまた非常に危ないので正面からは論じたくはないが、孝之の評価に「根拠なき全能感を持つ最近の若者の特徴がよく表れている」といった見方も不可能ではないだろう。もっとも、まさに20才くらいでこのゲームをやった自分は一体どうなるのか、といった根本的問題はある(なお、私が最初に君が望む永遠を終えた時は、「似たような経験をしていたらずっと高い評価を与えるだろう」とおぼろげに思っていた)。また英雄であるとか超人的な活躍を好む傾向が今日特別に強いのかも大いに疑問のあるところで、それをよくよく考えることなしに上記のような話をしても単なる印象論にしかならないのは確かだろう(まあポテンシャルと実力の関係のとらえ方は変わってきているのかもしれないが)。
最後に、何度も触れている「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」だが、これは「エロゲーは所詮ダメだ」という完全な否定を目的にした記事ではない。私はエロゲーのレビューを数多く書いてきたが、それはエロゲーを特別高く評価しているわけではなく、たまたまエロゲーの中で非常に優れた作品について(割合)細かく論じているだけだし、さらに言えばここで批判したいのはアングラゆえにこそ優れているというような見解だからだ(常識の反対、メジャーの反対が正しいわけでは当然あるまい。まあ今どきそんな呑気なとらえ方をしている人がいるのか、とも思うが)。
さて、このように論じるべきことはまだまだ山積みだが、これ以上前置きが長くなるのも何なので、覚書の内容に入ることにしよう。
<主人公のとらえ方> 「主人公は個性的であるべきか」
理論ではない。主人公が個性的な方が感覚的にいいから。じゃあその枠組みを相対化してより多くの作品を楽しめるようになれば、それは感覚的にもプラスじゃないのかい?=プラグマティズム、機能主義的な考え方。私が好きなのは~だと決め付ける(統一的自己なるものの虚構性)。それって本当にプラスなの?キャラ(的人間関係)、属性、再帰性(アマゾン―リコメンデーション)。アレックスの刑。
<受容分析という視点> 「『祟殺し編再考』の問題点」
「感情移入」とサブキャラシナリオの間に入れる意味。論理至上主義、戦争反対を叫ぶ人へ、栗平…ノイズのない郊外の病理榊原など、説明可能~。実は最初コメントがあるのを見て思ったのは「メンドくさいことになったかも」だった。受容分析か構造解析の批判か。まあ前者は結構身も蓋もない話になっちまうけど(「読者の大多数はバカだから何もわかってねーんじゃん?」とかね)。あの反論は私のような読みが一般的になされていないことを示したという意味で、私の論を破綻させうる。
※
作者の演出意図と誤読、誤読の要因、自明のものと思われているもの…それらを考えずにネタにしたり嘲笑したりするのなら、それは行為者の愚鈍さを暴露するだけにしかならないだろう。
<隷従への道、>
「ヘタレ」と感じる理由 を推測…誰しもが辛いことを経験しながら、それでもなお生きて選択を重ねねばならない。にもかかわらず、こいつは一年間廃人みたいになるわうじうじ悩むわで…甘えるな!サバイバーズ・ギルトと喪失感。二年目で復活し、三年目でようやく軌道に…というところで遥が目覚める。空白の描写が足りないならまだわかる。自分の場合は遥への怨念にそこまで必然性が感じられない(水月への嗜好によるバイアス)。
※
この手の個人的感覚に踏み込むなら、サバイバーズ・ギルトを始めとした別のアプローチが必要である。ただそうすると選択の倫理性などにも触れる必要が出てきそうで、正直面倒w
<なぜ「感情移入できない」のか>
以前の感情移入の記事→乱暴にまとめれば、それがほとんど妄想であるという内容。真―偽の二元論であり、当たり前か届かないか→原理原則を確認するのではなく、彼らの言う「感情移入」なるものが何なのかを明らかにせねばなるまい→東浩紀の引用→読み込むのではなく、むしろ無から有を作り出すことで成立。白紙の主人公を想起するだろう。君が望む永遠には第一章や細かな心理描写(過去ログ)があり、そういった主人公とは一線を画している。問題なのは、明らかなお門違いに気付いてないこと。それほど基準に支配されていることの証左→東の見解[≒感情移入の仕方が変化した]を補強。
※
「明らかなお門違い~」の下りは、「サブキャラシナリオの批判性」で取り上げたプレイヤーの反応1へと繋がる。ではお門違いだと理解し、割り切ればそれで万事OKなのか?前掲の記事では明記していないが、答えは否である。というのも、君が望む永遠のメインシナリオとサブキャラシナリオを重ね合わせて見えてくるものは恋愛ADV的「白紙の主人公」への強烈な批判性であって、単に孝之=「選らべない」=仕様として割り切ればそれで済む問題ではないからだ。君が望む永遠は、各自の拠って立つ土台を問い直すラディカルさを持ち合わせているのであり、それをただ所与のものとして無害化するのは否認に手を貸すことにしかならないだろう。
<君望レビュー回顧(自己分析でつながる> ・ヘタレと感じる理由を考えろ
誤解を恐れずに言えば「真理の言葉」によって説得を試みようとしていたのだが、中身の精度にも問題を抱えていたため、ある人には自明なことでしかなく、ある人には実感と噛み合わない額縁としてしか受け取られない。「ヘタレ」や「感情移入」に関する各レビューの無識さへの苛立ち、そういうものをすでに理解している人にとってレベルが低い記事だと思われる苛立ち、そしてこういった記事が結局は「感情移入できない」という感想を垂れ流している人に届いていないという苛立ちに支配→記事の刺々しさの由来。そのような論じ方への拘泥→自己分析→ユーノと真理、滅びの希求
※
「何でヘタレと感じるのか考えろ」という具合に受け手に自己分析を要求しているので、自分の君望の記事についてまず自分が自己分析をやってみたという次第。
<真理への拘泥>
タオル、ティッシュ、天魔1999.7.モリガン男コスプレ[ガラスのくつ]、ボーイッシュは最近?恋ようび。単に嗜好の問題なのではないか?という疑問が拭えない(ユーノ)。そこで別の視点として、「感情移入」を取り上げたい。同人誌やSS。あのような手法への拘泥…あまりの苛立ちのため構造を明らかにしてやろうというのもあったが、そこには説得できる[はず]という認識→真理への信頼・拘泥。まるで接木されたかのようなサブキャラシナリオにおける必然性のなさは、むしろ選択可能性を自明のものとする認識への強い批判性を持ちうる。メインの選択不可能性、穂村・星乃シナリオの性質。新百合→栗メガネ、月野、自由は~。
※
先に述べた自己分析は、もやしもんのゴスロリ女の記事(未掲載)でも行う予定だった。ここにはその名残がある。
<しかし、ただそれだけなのだ>
マキシマム、F.キセキ、Numb.Faint.Linlin#(久々の徹カラ)このような見地に到った時、ラカンの言う鏡像段階(理想像の押しつけ)やあるいは小説的、ゲーム的といった分類が、初めてプラクティカルな意味を持つのであるし、また同時にいかに自分がバイアスを通じて相手を見ているか、もっと大きく言えば人間の無理解の構造について(単に知るのではなく)気付くのである。語咄し、解題(ユーノ対話)、サバイバーズ。
※
普段論理的なレビューを書いている人でも結局孝之に関しては貧しい言葉を垂れ流しているのを見ると、大半の人が枠組みを与えられた中でネタなどの暗号解読はできても、恋愛ADVの枠組みといったレベル(=システム)については考えられないのではないかと思えてくる。
最後ということでいくつか補足をしておこう。
恋愛ADVという枠組みへの埋没(その様式をネタにはできてもきちんと客体化できてはいない)の話から、「ネタからベタへ」というしばしば見られる図式であるとか、各々の「正しさ」に引きこもるという今日的傾向(「大きな物語」の崩壊と連動)を連想する人もいるだろう。個人的には、大半のレビューには「AだからBはダメだ」という論理展開・考え方がなく、ただ単に「Bはダメだ」という底の抜けた表現がしばしば見られることがこの問題と深く関連していると考えている(説明不足、主人公に対する評価、中華料理屋の話などと繋がる。ただし、単純に感想として書かれるレビューも多数存在するという書き方の問題を無視すべきではない)。ちなみにこれは、DESIREのネタバレレビューにおいて、「なぜそれが問題なのか」という点をクローズアップした内容を書き、その上で批判に持っていく予定だった(引っ越しの時もやしもんなどの記事とともに散逸してしまい、いつ書くことになるやら…という状態だが)。
また「真版 なぜ「感情移入できない」のか」でも触れているが、君が望む永遠の内容が恋愛ADVのプレイヤーに馴染みにくいという事情も「ヘタレ」という評価の大きなファクターだと考えている。これは結婚や生活の問題がリアルに絡んでくるからだが(このようなメインシナリオの特徴を念頭に置くと、サブキャラシナリオにおけるあゆ・まゆたちとの会話がいかに従来の「恋愛ADV的」かがよく理解できるだろう→サブキャラシナリオの批判性)、そのようなしがらみによって選べなくなる姿を、大して束縛も受けない状況に慣れている人間は特に考えもせず「ヘタレ」と評価するだろうことは容易に想像できる。もっとも、かつて見た中年男性が書いたらしいレビューが、割と距離感を持って孝之を評価していた、という程度の具体性しかないため、このような切り込み方は印象論の余地を出ないわけで、ゆえにこれを主題に切り込む予定は今のところない(まあ直感的に当たっているだろうとは思うのだけど)。
あと、これまた非常に危ないので正面からは論じたくはないが、孝之の評価に「根拠なき全能感を持つ最近の若者の特徴がよく表れている」といった見方も不可能ではないだろう。もっとも、まさに20才くらいでこのゲームをやった自分は一体どうなるのか、といった根本的問題はある(なお、私が最初に君が望む永遠を終えた時は、「似たような経験をしていたらずっと高い評価を与えるだろう」とおぼろげに思っていた)。また英雄であるとか超人的な活躍を好む傾向が今日特別に強いのかも大いに疑問のあるところで、それをよくよく考えることなしに上記のような話をしても単なる印象論にしかならないのは確かだろう(まあポテンシャルと実力の関係のとらえ方は変わってきているのかもしれないが)。
最後に、何度も触れている「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」だが、これは「エロゲーは所詮ダメだ」という完全な否定を目的にした記事ではない。私はエロゲーのレビューを数多く書いてきたが、それはエロゲーを特別高く評価しているわけではなく、たまたまエロゲーの中で非常に優れた作品について(割合)細かく論じているだけだし、さらに言えばここで批判したいのはアングラゆえにこそ優れているというような見解だからだ(常識の反対、メジャーの反対が正しいわけでは当然あるまい。まあ今どきそんな呑気なとらえ方をしている人がいるのか、とも思うが)。
さて、このように論じるべきことはまだまだ山積みだが、これ以上前置きが長くなるのも何なので、覚書の内容に入ることにしよう。
<主人公のとらえ方> 「主人公は個性的であるべきか」
理論ではない。主人公が個性的な方が感覚的にいいから。じゃあその枠組みを相対化してより多くの作品を楽しめるようになれば、それは感覚的にもプラスじゃないのかい?=プラグマティズム、機能主義的な考え方。私が好きなのは~だと決め付ける(統一的自己なるものの虚構性)。それって本当にプラスなの?キャラ(的人間関係)、属性、再帰性(アマゾン―リコメンデーション)。アレックスの刑。
<受容分析という視点> 「『祟殺し編再考』の問題点」
「感情移入」とサブキャラシナリオの間に入れる意味。論理至上主義、戦争反対を叫ぶ人へ、栗平…ノイズのない郊外の病理榊原など、説明可能~。実は最初コメントがあるのを見て思ったのは「メンドくさいことになったかも」だった。受容分析か構造解析の批判か。まあ前者は結構身も蓋もない話になっちまうけど(「読者の大多数はバカだから何もわかってねーんじゃん?」とかね)。あの反論は私のような読みが一般的になされていないことを示したという意味で、私の論を破綻させうる。
※
作者の演出意図と誤読、誤読の要因、自明のものと思われているもの…それらを考えずにネタにしたり嘲笑したりするのなら、それは行為者の愚鈍さを暴露するだけにしかならないだろう。
<隷従への道、>
「ヘタレ」と感じる理由 を推測…誰しもが辛いことを経験しながら、それでもなお生きて選択を重ねねばならない。にもかかわらず、こいつは一年間廃人みたいになるわうじうじ悩むわで…甘えるな!サバイバーズ・ギルトと喪失感。二年目で復活し、三年目でようやく軌道に…というところで遥が目覚める。空白の描写が足りないならまだわかる。自分の場合は遥への怨念にそこまで必然性が感じられない(水月への嗜好によるバイアス)。
※
この手の個人的感覚に踏み込むなら、サバイバーズ・ギルトを始めとした別のアプローチが必要である。ただそうすると選択の倫理性などにも触れる必要が出てきそうで、正直面倒w
<なぜ「感情移入できない」のか>
以前の感情移入の記事→乱暴にまとめれば、それがほとんど妄想であるという内容。真―偽の二元論であり、当たり前か届かないか→原理原則を確認するのではなく、彼らの言う「感情移入」なるものが何なのかを明らかにせねばなるまい→東浩紀の引用→読み込むのではなく、むしろ無から有を作り出すことで成立。白紙の主人公を想起するだろう。君が望む永遠には第一章や細かな心理描写(過去ログ)があり、そういった主人公とは一線を画している。問題なのは、明らかなお門違いに気付いてないこと。それほど基準に支配されていることの証左→東の見解[≒感情移入の仕方が変化した]を補強。
※
「明らかなお門違い~」の下りは、「サブキャラシナリオの批判性」で取り上げたプレイヤーの反応1へと繋がる。ではお門違いだと理解し、割り切ればそれで万事OKなのか?前掲の記事では明記していないが、答えは否である。というのも、君が望む永遠のメインシナリオとサブキャラシナリオを重ね合わせて見えてくるものは恋愛ADV的「白紙の主人公」への強烈な批判性であって、単に孝之=「選らべない」=仕様として割り切ればそれで済む問題ではないからだ。君が望む永遠は、各自の拠って立つ土台を問い直すラディカルさを持ち合わせているのであり、それをただ所与のものとして無害化するのは否認に手を貸すことにしかならないだろう。
<君望レビュー回顧(自己分析でつながる> ・ヘタレと感じる理由を考えろ
誤解を恐れずに言えば「真理の言葉」によって説得を試みようとしていたのだが、中身の精度にも問題を抱えていたため、ある人には自明なことでしかなく、ある人には実感と噛み合わない額縁としてしか受け取られない。「ヘタレ」や「感情移入」に関する各レビューの無識さへの苛立ち、そういうものをすでに理解している人にとってレベルが低い記事だと思われる苛立ち、そしてこういった記事が結局は「感情移入できない」という感想を垂れ流している人に届いていないという苛立ちに支配→記事の刺々しさの由来。そのような論じ方への拘泥→自己分析→ユーノと真理、滅びの希求
※
「何でヘタレと感じるのか考えろ」という具合に受け手に自己分析を要求しているので、自分の君望の記事についてまず自分が自己分析をやってみたという次第。
<真理への拘泥>
タオル、ティッシュ、天魔1999.7.モリガン男コスプレ[ガラスのくつ]、ボーイッシュは最近?恋ようび。単に嗜好の問題なのではないか?という疑問が拭えない(ユーノ)。そこで別の視点として、「感情移入」を取り上げたい。同人誌やSS。あのような手法への拘泥…あまりの苛立ちのため構造を明らかにしてやろうというのもあったが、そこには説得できる[はず]という認識→真理への信頼・拘泥。まるで接木されたかのようなサブキャラシナリオにおける必然性のなさは、むしろ選択可能性を自明のものとする認識への強い批判性を持ちうる。メインの選択不可能性、穂村・星乃シナリオの性質。新百合→栗メガネ、月野、自由は~。
※
先に述べた自己分析は、もやしもんのゴスロリ女の記事(未掲載)でも行う予定だった。ここにはその名残がある。
<しかし、ただそれだけなのだ>
マキシマム、F.キセキ、Numb.Faint.Linlin#(久々の徹カラ)このような見地に到った時、ラカンの言う鏡像段階(理想像の押しつけ)やあるいは小説的、ゲーム的といった分類が、初めてプラクティカルな意味を持つのであるし、また同時にいかに自分がバイアスを通じて相手を見ているか、もっと大きく言えば人間の無理解の構造について(単に知るのではなく)気付くのである。語咄し、解題(ユーノ対話)、サバイバーズ。
※
普段論理的なレビューを書いている人でも結局孝之に関しては貧しい言葉を垂れ流しているのを見ると、大半の人が枠組みを与えられた中でネタなどの暗号解読はできても、恋愛ADVの枠組みといったレベル(=システム)については考えられないのではないかと思えてくる。
私はつい先日友人に薦められこのゲームをプレイしました。
私が孝之に近い体験をした事がある人間なので薦めてくれたようです。
理論的な話云々もあるのですがやはり恋愛経験が問題なのではないかと思います。
二股経験や恋愛における思考のループ(よし、もう別れよう→いやしかしなぁ・・等)をダイレクトに自分に投影して想像できるかどうかっていうのが最大のポイントかと。
恋愛における情や愛情や後悔等についてある程度の経験と自分なりの答えを持っている人意外は土俵にすら立てないんではないでしょうか。
例えば水月に対する思いや情は厳密には異性と3年間の同棲経験が無いとわからない等ですね。
よく言われる「あの状況でお前は孝之と違ってちゃんとした答えをだせるのかよ?」っていうのはちょっと違ってそれに近い経験をしたことが無いとわからないどころか土俵にすら立てていないというのが本質だと思っています。
まず、通りすがりさん(と一応お呼びします)のおっしゃることはかなりの程度賛成します。恋愛経験のみに限定するのはいささか問題があるようにも思いますが、しかしそれでも、しがらみや深刻な葛藤の経験の有無が、鳴海孝之に対する評価において非常に重要な要素であると私も思うからです。実際、孝之と似たような経験をしたという私の先輩(この人はほとんどエロゲーに縁のない人だったのですが)は「同じような経験をしたからよくわかる」みたいなことを言っていましたし、私自身、最初から最後まで通して初クリアした時の感想は「同じような経験をしていたらずっと高い評価になっていただろう」というものでした。要するに、個人的な経験からも孝之への評価は経験依存度が高いという意見には頷けるのです。
しかしそれでも、本質的な部分で通りすがりさんのご意見には賛成できません。これは本文の内容からは理解が難しい部分だと思うのでリンク先も読んでいただきたいのですが、たとえ孝之と類似した経験が皆無でも心理描写などが緻密なため彼を理解すること(≠共感)は十分可能な作りになっていると思いますし(実際、私はそういう葛藤とかに無縁でした)、あるいは逆に、同じような経験をしているからと言っても、決して孝之と同じ感情を持てるわけではないと考えています(その時の自分の気持ちを投影することはいくらでも可能でしょうが)。
どうも通りすがりさんは「感情移入」や共感を基準にして話をされているように思うのですが、私が言っているのはそういったものに頼らなくても心理描写がきっちりなされているため孝之は十分理解できる存在であるということであり(というよりそのような基準は単に自己の投影や埋没にしかならないとさえ言ってきたわけですが)、そしてそれにもかかわらず受け手たちが彼をまるで理解できてないし、またしようともしていないのはなぜだろうか?そうさせている原因は何なのか?というのがかねてからの私の疑問なのです。
もし仮に君が望む永遠が経験にのみ依存した「わかる人にはわかる」ような作品であったのなら、むしろ私は全く評価しなかったのではないかと思います(誤解を恐れずに言うと、メディアの性質上心理描写が大幅に削られたアニメ版はこのような傾向が強くなっています)。孝之たちの苦悩を緻密な心理描写(実はこれが逆効果になっている部分もあると思いますが、それはまた別の機会に触れます)によって多くの人にも理解できるようにするだけでなく、それに練られた演技を組み合わせることで非常に優れた作品となっている…それが君が望む永遠であると評価しています。
少し話がそれましたが、君が望む永遠は非常に具体的に心情の動きが語られているので、具体的な突っ込みや批判がいくらでもできるようになっているわけです(「茜妊娠エンド」でなぜ容態の安定しない病人とヤるの?など挙げだせばキリがない)。それゆえに批判者たちが実に曖昧な不快感を垂れ流しているのが不思議でしょうがないのですが、一方でそれは彼らが何も考えていないことを示しているというのが私の推論です。もし具体的な突っ込みや批判を行えば、「でも~っていう問題はどうするの?」という疑問・反論が出てきます。そしてそういうものを積み重ねていくと、気がつけば孝之と似たような袋小路にはまっていることに気づくのです。批判者たちのレビューにはこのような要素が全く見られないのですが、これは非常に不思議なことです。思うに、彼らはそういう思考実験を全くやっていないのでしょう。いやそれどころか、書かれたものをちゃんと読もうとしているかさえ怪しい。要するに、孝之に対する評価は、評価者たちの経験以上に、彼らがきちんと読み、考えていなことが原因だと思われるのです。
長くなりましたのでまとめます。
確かに孝之(or君望)への評価は経験への依存度が高い。しかしながら、たとえ経験がなくても十分理解できるように細かい心理描写などがなされており、逆に言えばそれに対して具体的に批判を行うことはいくらでもできる(私もそのような経験は皆無だが、かなり理解はできたと思う)。にもかかわらず、批判者たちは抽象的な不快感を垂れ流すだけである。それはつまり、心理描写をきちんと読み込めていないばかりか、自らの不快感(exなぜ選べないのか)についてもほとんど考えようとしていないことを意味する。そのような思考様式、あるいは心の働きこそが、「孝之=ヘタレ」という評価の根源にあるのである。