チェーホフと「マテリアリズム」

2006-01-26 20:49:45 | 本関係
『チェーホフ全集10』所収の「役目がら」「かわいい女」「新しい別荘」「犬をつれた奥さん」まで読了。チェーホフには失礼な話だが、今まで読んだ「ワーニャおじさん」「桜の園」「かもめ」が四大劇に位置づけられているというのを知って、実は他の作品について若干の不安を持っていた。しかし、上記四作を読んだ時点でその心配が杞憂であったことがわかった。彼の鋭い視点や描写の仕方は多くの作品に適応できるものらしい(まったくもって偉そうな文章だ。しかし今では尊敬すらしているのでお許しをw)。

さてその中で、新潮文庫の『かわいい女・犬を連れた奥さん』(小笠原豊樹 訳)におけるあとがきが気になっている。というのもそこでは、「チェーホフのマテリアリズム」ということが言われているからだ。確かに、今までの作品を見る限り、彼が特別信心深いという印象は受けない。しかしそれを「マテリアリズム」とまで言ってしまうと語弊があると思う。たとえば「ワーニャおじさん」がいい例だ。ソーニャが辛く単調な現世もしばらく辛抱すれば神の加護があって来世に行けるとワーニャを慰めながら働くシーンで幕を閉じる(97p)。また、アーストロフは墓に入ったとき楽しい幻が訪れるのが希望だとワーニャに言う(84p)。そしてマリーナは、キリスト教徒らしい食生活や「神さまの居候」という言い回しをしている(79-80p)。ここで重要なのは、マリーナが教授夫婦のいた頃の食生活をキリスト教徒らしい食生活から逸脱していたことを述べている点だ(時間帯、食事の内容)。私は当時流行りの思想に関する知識はないが、それでも教授が宗教的な観点から非難されていることははっきりしている(もちろんチェーホフ本人の主張とは限らないが)。その教授は、嫌味ったらしく尊大で我侭な人物として描かれている(24p他)。少なくとも、同情を寄せるべき人物という位置づけにいないのは間違いない。そしてそういった立場の教授が宗教的観点から非難されているのだ。もしチェーホフが「マテリアリズム」の立場をとっているのだとしたら、このような構図になるだろうか?むしろ立場は逆転するのではないか?教授を非難したマリーナは(宗教を含めた)旧来の生活を尊重する人物として描かれているが、私が読む限り彼女への批判的な記述は見られない。そして、最後の終わり方。これらを考えあわせれば、チェーホフに宗教的なものを嫌う、あるいは切り捨てるような意図があったようには感じられない。少なくとも、人々が生きていく上で、宗教というものが重要な役割を果たしているのだということを彼が認識していたのは間違いないだろう。この傾向は、「新しい別荘」における農民と技師婦人の(生活の余裕に基づく)宗教に対する態度の違いにも表れているように思う。

以上のことから、チェーホフが個人的領域で宗教をどう捉えていたかは判然としないが、仮に否定的であったとしても、作品はそのような立場で書かれていないと言える。

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