以前紹介した『喧嘩両成敗の誕生』の清水克行と落合陽一の対談動画が出ていたので掲載しておきたい。元々、呉座勇一が嘉吉の乱に関する動画を出していることに関連し、清水の足利義教時代の統治に関する動画を紹介するつもりでいたが、こちらが先に出たので予定を変更した(せっかくなので、それらの動画も末尾に掲載しておく)。
ここで紹介されているのは、「端的に言えば近代司法以前の自力救済の世界がどのように動いていたのか」ということになる(例えば鎌倉時代であれば、土地の所有権に関して問注所の公式な裁判で勝訴したとしても、差し押さえ行為は自分でやらなければならない=できなければ勝訴しても泣き寝入りだったりする。また自力救済とは異なるが、室町・戦国時代には郷質や国質といった同郷というだけで他人の負債を肩代わりさせられる行為が見られ、「私有財産の神聖不可侵」というのが当然になっている現在では理解しづらいものだろう)。
重要なことは、それを現在との差異から単純に白眼視したり称揚したりするのではなく、どのような理屈(法・宗教・世界観)で動いていたのか≒当代のコスモロジーを分析・理解し、もって今日の私たちのそれらを相対化したりより深く理解するきっかけにすることだろう。これは、『世界の辺境とハードボイルド室町時代』において、現代ソマリランドと我々の懸隔ということも含めて述べられているので、よりいっそう多角的に学ぶことができるようになっている(なお、清水の『日本神判史:盟神探湯・湯起請・鉄火起請』は、日本人の宗教観の変化やその特性を考えていく上でも非常に興味深い研究なので、江戸時代の宗門人別改帳や「葬式仏教」の確立などと絡めつついずれ取り上げたいと思っている)。
ちなみに「漢字の到来と古典の学習について」でも述べたように、古典学習の目的が「過去の文化を昔の言葉の学習を通じて知る事」であるならば、現行の教育システムではそれを達成できるようなものとは到底なっていないし、それであれば廃止すべきだと私は考える。むしろ古文文法の活用なんてやる前に、こういった歴史の学習から紐づけて過去の文化への興味・感心の惹起→古文文法や古語の理解というルートをたどらなければ、それらに興味を持てないのは当然ではないだろうか、と述べておきたい(まあそうなると、古文の授業と歴史の授業を分けているメリットとは何ぞや、といった話にもなるわけだが。この辺が教育上の合理性よりも職業教師のスキルによる便宜的な区分けに依存しているのであれば、映像授業やAIの導入によって乗り越え可能なものだと私には思われる)。
「昔は良かった」なんて言葉を使う人間ほど、「昔」なるものの実態をわかっていないというのはよくある話なので(凶悪犯罪が増えているという誤認はその典型)、そういう経験や懐古でしか物事を見ようとしない人々と一線を画すためにも、こういった発信はとても大事なものだと感じた次第だ(「和を以て尊しとなす」とかをやたら取り上げる人たちは、天皇家主導の内戦である壬申の乱とか、あるいは日明貿易で寧波において大内氏が細川氏を襲撃した寧波の乱とかは、どうも都合よく忘却してしまうものらしい)。
以上。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます