もう1年近く前になるだろうか、高田馬場のジョナサンでウエッキーと飯を食っていた時のこと。
どんな文脈でかは忘れたが、「民族紛争とかも戦争じゃなくてサッカーとかで勝敗決めればいいと思うんだけどね」と彼が話を振ってきた。少し沈黙した後で俺が「いや~、それは難しいっしょw」と応じると、「なんで?」とヤツがニヤニヤしながら聞いてくる。なるほど、コヤツわざとかw
ところで、この話を高校時代にした(ダベっていた?)時、本気で起こった人がいたらしく、俺はそのエピソードがとてもおもしろと思った。どういうことか?おそらくそれは、「深刻な問題をネタにするな≒もっと真剣に考えろ!」という怒りだったと思われる。もちろん本人に聞いたわけじゃないので推測にすぎないけど、当たらずとも遠からずじゃないか。で、この推測が当たっているのなら、彼の反応は理解可能な「真摯さ」「誠実さ」に拠っていると言えるのではないだろうか。
先回りしておくが、俺が言いたいのは、「話題が深刻であったとしても、日常のたわいない会話で本気で怒るなんてちょっと融通が効かないってゆうか生真面目すぎるんじゃない?」などという揶揄ではない。というのも、そういうのを「ネタ」にして疑わない連中はただ考えてないだけで、それゆえにいざとなったら同じく凡庸な反応をすると俺は思っているからだ。
ここで先の「わざと」というのが重要になってくるのだが、物事がそう単純でないことぐらい、発言したウエッキーもわかっている(=ベタにサッカーで解決できるなんて思っていない)。しかし本当に、絶対に無理なのか?その解決可能性を真剣に吟味したことはあるのだろうか?実は、そういう話を思考の埒外に置いて深刻にとらえて思考しようとする「誠実さ」、あるいは「良心的」「真面目な態度」こそが、むしろ思考の閉塞を生み、事態を深刻化・長期化させているということはないのだろうか?
これは二つの意味においてである。
まず一つ。戦争映画においては、敵・味方が一緒に飯を食ったりゲームをしたりする中で親密さが醸成され、結局相手のことが殺せなくなったりする、という現象がしばしば描かれる。そこには、大仰な理論、すなわちイデオロギーや「崇高なるもの」こそが巨大な争いと悲劇を生みだし、むしろ日常で作り出される理論によらない親近感や人間としての尊厳を認めるという行為が争いを止めうるのだ、という理解がある(もっとも、ずいぶん前に「歴史学の社会的意義」という記事で書いたような中和の仕方もあるのだけど。というか、親密さの醸成は肝要ながらアドホックさを免れえないので難しい・・・)。
二つ目。自殺を止めようとする時などにも当てはまるが、深刻な対話よりもむしろ、「飯でも食わない?」と言って文脈をズラす方が効果がある場合もある。深刻さに対して深刻さで応じることは極めて誠実で合理的な反応のように思えるけども、実は物事や精神を泥沼化してしまうことも少なくないのだ(悩んでいる人が身近にいるからって、一緒に悩むことが事態を解決に向かわせるとは限らない・・・というのは結構経験がある人も多いと思うがどうだろうか)。
もちろん、これらをもって戦争の代わりにスポーツで何とかできるっしょ?とベタに思うのはナイーブを通り越して単なるアホなので捨て置く(そういう思い込みが歴史を動かしてきたこともしばしばあるでしょう?と言う人がいるかもしれないが、それを一般化されちゃたまりません)。「国家と暴力」の話とかから始まって、力で有無を言わさぬ戦争と違い、種目とか試合の進行など納得の醸成が極めて難しいといった問題だらけだからだ。ただ繰り返しになるが、ヤツが明らかにわざと「本当に無理なの(かってきちんと考えてみた)?」と問いかけきたことから、それが思考実験だとか思考的閉塞(あるいは逆説)の話をしていることは明らかであった。ゆえに、真剣に深刻に考えることがかえって思考的閉塞と事態の悪化を招いているんじゃないか?という問題意識として、非常に興味をそそられた次第。
さて、この話題はさらに「日本的想像力の未来」へと接続できるように思える。最近話題の作品だと「テルマエ・ロマエ」がわかりやすいが、それとも絡めながら、次回は「意識的なユルさ」に関して書いていきたいと思う。
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