以前Vtuberとセーフティーネット(Vtuberのとっつきやすさがもたらすメリット)について書いたが、このテーマに関して幅広く扱う、懲役太郎(以前ヤクザ組織に属していたVtuber)とかなえ先生(元法務省勤務のVtuber)の対談チャンネルが比較的最近登場したので、そこにも触れておきたい。
この動画を見ていると、『夜と霧』やスタンフォード実験を連想させられる。それらはどうしても異国の出来事=遠い世界の話に思えてしまうかもしれないが、この事例は会社の上司ー部下の関係性、部活の顧問ー部員の関係性などと絡めて、比較的身近で、それゆえ自分にも交換可能な事例として聞けるのではないだろうか。一般化すると「人はいかに他者を人間扱いしなくなるか」という点で興味深い。
これは相模原の事件があった際に、「イミテーションゲーム5」という題名で記事を書いたことがある。自分の感想を端的に言えば、この事件に関するほとんどの意見が、自分が加害者にも被害者にもなるとは全く思っていない発言ばかりで驚愕した、というところか(まあだからそういう人たちの日頃の発言も短絡的になるんだろうけど)。
というのも、たとえば生活保護などを始めとしたセーフティーネットに関して、「社会に迷惑をかけず勝手に死ね」的な短絡的自己責任論はしばしば見られるが、そういった言説が生存権などをガン無視しているという問題をさておくとしても、その延長線上に植松聖的な犯行があると思っていない=自分も加害者側だと認識がないのが、正直感心したくなるほどであった(まあ自分の発言を正義と信じて疑わないからそうなるんだろうけど。ちなみにこれはいじめの傍観者=消極的加害者と類似の意識で、私はここから「日本でのいじめ被害は孤独感という要素が大きい」というデータも連想した)。
これが「加害者である(そうなりうる)自覚」なわけだが、では「被害者になりうる自覚」とは何か?非常にわかりやすく言えば、「誰しも将来認知症になったり寝たきりになったりするリスクがあるし、そうなった時に社会からやまゆり園の被害者たちと同じ扱われ方をするかもしれない、という点を意識しているように思えない」てこと(ちょっと極端な事例であることをわかった上で書くなら、私がダウ―元帥の記事で「バカは死ぬのが正しいと考えるが、そうするとまず私自身が死ななければならなくなるので、その個人的発想法を社会=公に適応することはそもそもできない」と書いたのと同じだ。もう少し抽象的かつ穏当に言うと、「人に対して要求したものが、まだ見ぬ将来に自分へ適応されるリスクや、そうなっても問題が生じないよう行為・言説を陶冶する意識」はないのだろうか?と表現することができる)。
だからこの事件に対する諸々の反応で見えたのは、「社会的影響とか自分との交換可能性を考慮に入れず、条件反射のように発言してる人間てかなり多いんだなあ」てことだし、もっと社会が疲弊して分断も加速したら、もっと人は余裕を失ってこういう傾向がより強まるんやろなあとも思ったわけだ(すでに共同体の解体は急速に進んでいるので、「困った時はお互い様」ではなく、蜘蛛の糸を掴むのは私だ!と蹴落とし合いが始まるってことやね。利己性と利他性などのテーマで数度取り上げてきた『鬼滅の刃』で言えば、前者を鬼殺隊、後者を鬼になぞらえることができよう。もっとも、社会からの「俺も苦労しているんだからお前も苦労しろ」的な負の斥力は強まるだろうから、それを上手く潜り抜けた者勝ちって感じになるのかねえ。それやったらもう海外出た方が早くね?てなるのかは個々人の判断によるんだろうな)。
え?でも重度の障碍者をケアするのってどれだけ大変かわかっているのかって??いや、それには全く同意しますよ。障がい者云々でこそないけど、自分も祖父が寝たきりになったことで祖母が老老介護で壊れかけ、両親も離婚しかけるって事がありましたからねえ。「どの命にも価値があるからそれを生かすために全力を尽くそう(歯がキラリ)」みたいなのは建前で、実際それを目の当たりにしてお前はやれんのかってのはおっしゃる通り。
でも、だからこそ「永遠の微調整」なんじゃないの?と思う(注:日本社会全体で見た場合、今後それができるようになるとは言ってない)。前にも書いたが、「ユートピア」はその言葉通り存在しないのである。というのも、必謬性を背負った人間に過誤のない社会は作りえないからだ。ゆえにこそ、何が求める世界か(それだって固定的なものではない)を考えながら、ベターを目指して不断の努力をし続けないわけにはいかない(注:ただしそれができるとは言ってない)・・・て話なんじゃあないですかね。
というあたりでだいぶ長くなったのでこの記事は終了。他にも紹介したい動画はあるが、それは機を改めることとしたい。
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