み歪の知認が間人せる向志を命革

2022-12-30 11:30:30 | 感想など

 

 

 

 

 

 

「金融義賊」を見終わる。なるほど、「革命」が成就するどころか、悲劇的な失敗を迎えることさえなく、ただただその独善性と矮小性が明らかになって自壊していく様は、大学時代に読んだモラヴィアの『深層生活』を思い出した(もちろん、タイプとしてはドストエフスキーの『悪霊』やオーウェルの『動物農場』を想起することもできるが、主人公の主観とその独善性の表現という点では『深層生活』が最も近いと感じた。あるいは主人公の語り方に見える偏り、もっと言えば偏執性は、その結末を含め筒井康隆の『敵』なども連想させる)。

 

私は原作の小説版は読んでいないためそこから受ける印象はわからないのだが、少なくとも主人公の認知の歪みを表象する上で、動画というプラットフォームは説得力という点で非常に適切だったと思う。特に顧客を異形として描く演出は、最初こそアイロニーを込めた冷笑的反応を惹起するものとして機能する一方、中盤以降は徐々に主人公の狂気を表象するものへとスライドしていくことも相まって、文字だけで描くことより直截に世界観を受け手に伝えることを可能にしたのではないか(またこの演出からは、主人公に対する作者の距離感を読み取りやすくもなる)。

 

金融義賊で描かれているテーマに関し、私がここで結論めいたことをあれこれ述べるのは適切ではないだろう。というのは、そこで描かれる内容のどこに賛同するのか、反発するのか、そしてそのような感想を自分が持つのはなぜなのか(道徳?怨念?信念?公益性?)・・・と2周目を見つつじっくり考えることが有益な作品だと思うからだ(例えば最終話の状況の幻想が暴かれていくシーンは、義田の認知の歪みが明るみに出るだけでなく、「なぜ連帯が難しいのか?」というテーマとも連動する。「LGBT」というくくりがある種便宜的なものにしかなりえないのと同じで、誤解を恐れずに言えば、「下層=同志」などでは全くないのだ。これは「反体制=善」が成り立たないのと同じように、「上流階級=悪人」だとか、「アンダークラス=聖者」という図式が成立しないこととも関連している)。

 

とはいえ、ルサンチマンが被害妄想とあわせて「革命」という飛躍をもたらし、その独善性を糊塗する理論を固めていくという流れは歴史上枚挙に暇がなく(そこでは下柳的な改良主義も体制肯定的と非難される)、今日でも陰謀論などに突き動かされて妄想をまき散らし、果ては議事堂襲撃などにまで乗り出す人間がいるのはよく知られているところだ。

 

そのような構造を理解するがゆえに理論武装された革新・革命を安易に信用せず、慎重に批判的態度を持つことが重要だろう。また、今後の経済・精神両面における社会的ひっ迫を考えれば、本作でも出てきた「無敵の人」はこれからどんどん増えていく可能性の方が圧倒的に高い。そのような状況をどう手当てするのか?もしくは「手当てなどしなくていい自己責任だ」と言うのであれば、(個人的に)どういう防衛手段を取るのか?ということを考える機会にもなるだろう。

 

・・・とまあ理屈面ではそんな感じだ。
ちなみに自分の場合、初期の記事にて「人すらもオブジェ」と書いているし、「病的な完璧主義:世界への敵意と滅びの希求」などは「全員くたばれ」の形を変えた表現に過ぎないので、全く義田を嗤うことはできませんよと(苦笑)。まあそういう殻を破砕する契機として「私を縛る『私』という名の檻」という話もあるのだが、己が独善に陥る危険性は常につきまとっている(だからこそ学びを続けるのでもある)。その意味でも今回の話は改めて色々考えさせられたように思う。

 

さて、金融義賊の最終話までの感想を記事にしたのは、もちろんこれまでの総括という意味もあるが、毒書会の相方から提起された本で、松本一志『エビデンスの社会学:証言の消滅と真理の現在』を勧められたのも関係している。まだ読んでいないのでまた聞きのレベルだが、この本はいわゆる価値相対主義の時代において、何だったらポストトゥルースとすら言われる時代において、「素朴な相対主義と素朴な実証主義をともに避けながら、それでも『実在』(=世界)やそれをめぐる『証拠』について思考するにはどうすれば良いのか?」を考察する本である(この問題意識は、政治哲学においてはローティがリベラルアイロニズムを提唱したことなどにも通ずる)。

 

なるほど「物事の多様性に目を向けよう・それを許容しよう」というのは容易だ。しかしその時、しばしば多様性の善的側面にしか目が向けられていない。例えば薬の特効薬があるとして、多くの人間がそれを信じず、怪しげな民間療法に手を出すのは多様性として許容すべきだろうか(これは「愚行権」の領域で考えることもできるが、公益性という点ではより深刻な問題だ)?あるいは根拠の怪しげな理論に乗っ取り妄想に妄想を重ねて「真実」とやらを語る人間たちを放置するのは「多様性の許容」にあたるのか?

 

先ほどポストトゥルースに触れたが、Qアノンなど陰謀論が跋扈する世において、この多様性のネガティブな面に目を向けないわけにはいかない。であるならば、相対主義や多様性の許容というものをどう公益性と両立していくかを考えることなく無批判に肯定していくなら、手痛いしっぺ返しを食らうことは目に見えている。その危機感をもった上で、実証はもちろん、その共有ということについても改めて考えていかなければならない段階にきている、と述べつつこの稿を終えたい。


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