「前に次の毒書会は『野生の思考』だと言ったな。あれは嘘だ。」「ウワー!!( 。∀ ゜)」
てなわけで、元々レヴィーストロースを読むという話だったが、それと並行する形でマンハイムの『イデオロギーとユートピア』も読み進めるということになった(まあムスカ症候群のせいで進んでおりませんがw)。これは突然の変更ではなく、前に紹介した松本一志『エビデンスの社会学』に関連して、認識論とその社会的影響を扱ってみようという文脈である。
思えば、自分にとって認識論はかなり初期の頃から非常に重要なテーマであり続けてきた。それは就学前に見た「三国志」に関する母親の説明への違和感であったり(司馬遷の「天道是か非か」と類似の話)、小学時代の「宗教と思索」で書いたような宗教と距離を取っているはずの人間や社会の極めて宗教的・非論理的思考、中学時代の「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、『共感』」で書いたような極限状況でも普段の正常な思考ができるという思い込み(正常性バイアスにも通じる)、高校時代の「私を縛る『私』という名の檻」で書いたような自身や世界はこうであるはずだという無根拠な思い込みといった形でしばしば立ち現れてきたのである。それらに共通するのは、「人はなぜ正しく認知できないのか」、いやより正確には、「なぜ大して根拠のないものを真理のように思い込み、語ることができるのか」という問題意識であったと言えるだろう(念のため言い添えておくが、これは自分も含めた人間一般の話である。これだけ膨大な量の記事をあえて複数のブログに分けて運用しないのも、これ自体が過誤や飛躍、思考の変遷を含め「思考の体系を示す一つのサンプル」、即ち一つの実験場であるからに他ならない)。
そのような中から、例えば先の「天道是か非か」と「宗教と思索」の話を絡めると、実際の世の中は「正しい人間が成功して長生きし、悪い人間が失敗して早死にする」ようにはなっていないので、その整合性を取るために死後の世界が想定され、現世での振る舞いが来世で辻褄が合うように天国・地獄のようなものが措定されたのだな、という仮説を立ててみたりしてきたわけである(死後の世界を想定するだけなら妄想力の化身であるホモサピエンスの特性を踏まえれば驚くべきことでもないが、そこに序列を想定して体系化・流通させるところにそういう物語が要求された社会的必然性があったのだろう、という意味。ちなみにこのような理解は、『ヘーゲル法哲学批判』の「宗教はアヘンである(がそれが求められるにはそれなりの必然性があった)」という有名な一説などにも通じるものと言える。これはもちろん「『神の罰』の起源:その合理性・必然性について」などともリンクする)。
このような問題設定は極めて抽象的に思われるかもしれないが、この「人間という合理性とバグを併せ持った存在をどう理解するか」というテーマは、かつては哲学、20世紀(近代)に入ってからは精神分析や社会学などの形で探究され、今日では認知科学の発展などから正常性バイアスや認知的不協和のような理論化・体系化された形で理解されるようになっている(ハロー効果やサイバーカスケードのような用語、あるいは行動経済学などを思い浮べる人もいるだろう。ちなみに教育格差の話やそれへの無理解を取り上げているのも、この文脈を踏まえている。要するに社会心理学などで取り上げられる環境要因の理解に乏しく、自助努力に大きく偏った発想から誤った発信をしていると言えよう)。
とまあつらつら述べてきたが、こういう来歴を踏まえれば、マンハイムの知識社会学がごときアプローチに私が興味を持つことは一種の必然と言えるだろう、という話である(あるいはフーコーのエピステーメーやクーンのパラダイムなども同様である。地球平面説を紹介した時の記事も参照)。
またこれに関して、毒書会の相方からは私のスタンスが実証主義寄りという話が出たが、自己認識ではYES and NOと考えている。先に挙げた諸々の事例や研究からもわかる通り、人間とはレセプターとしての限界もあり誤謬を免れることができない。ゆえにこそ、放っておけば偏見や誤認という名の荒波にさらわれてしまう状態への錨として、実証が極めて重要というスタンスを取っているのである(ここでは『人間の建設』書評の中で述べた、小林秀雄と岡潔の「古代ギリシア=個人主義」という認識に対する批判を想起されたい)。
しかしそもそも、実証を経ても多くの結論は仮説や一説に過ぎず、また定着したかに見えた論でさえも新たな材料によって覆されていることなどしばしばである。そのような一つに決め難いという「曖昧さ」や常に更改の可能性を内在しているという限界・戒めも含めての実証だということを忘れるならば、それはナイーブな「論破ゲーム」の様相を持つただの痴的営為に堕すことだろう(これは反証可能性という要素を無視した陰謀論の特性を見るなら、思い半ばに過ぎるというものだ)。
このことは、歴史の話に関連して、私が軍記物や偽史、陰謀論などにもしばしば触れてきたことも深く関連する(具体的には「呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』:評価の変遷と歴史的背景」、「幻想の解体:宗教・思想・怪談」、「陰謀論の歴史と背景:『魔女に与える鉄槌』・『シオンの議定書』」など)。これは「史実」に対しての誤りを単に指摘したり、ましてそのことで愚かな説を唱えている(人々)と見下したりすることが目的ではない。「私たちはいかに話を創作するか」、「私たちはいかに誤認するか」、「私たちはいかにそれを信じるか(信じたくなるか)」といった問題意識から、そのパターンを理解し、場合によってはその解毒化・耐性化のためである。
以上ような理由から、私の中で実証主義と認識論は分かつことのできない両輪のような存在になっており、正しい認識を導くために実証を重視しつつ、正しく実態を理解できなかったり同じものを見て全く違う結論に至る状況を分析するツールとしての認識論を重視してもいるのである。
そう結論を述べたところでこの稿を終えることとしたい。
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