昨日の散策会のゴール手前は瑞雲院だった。最後に見た天野氏の墓所は墓の大きさといい規模といい、小さいものだった。というのも、南北朝時代には南朝方・北朝方それぞれで骨肉争う内部抗争に明け暮れ、また、戦国時代では武田軍・徳川軍の狭間で揺れ、最後は犬居城から各地に敗走した経緯がある。
そのため、大規模な墓石を作る余裕なくひっそり小さな「一石五輪塔」が残された。一石五輪塔は、字の通り一つの石で五輪塔の墓を作ったものだ。戦火で破壊されたこれらの墓石は近くにあったものを、昭和30年、地元の森下喜作・石黒仁さんらの奔走により現在地に修復されたものだという。
五輪塔は、上から、「空」「風」「火」「水」「土」という宇宙を構成する要素を示す「仏」とともにある供養塔でもある。こうした墓石は室町時代前後の貴族や武士などかなり身分が高い有力者の証左である。
そのすぐ隣の「笠付方形」をした墓石群も新しいとはいえ、名主級の有力者らしい。石の墓石をつくることが庶民にできるようになったのは江戸中期以降というから、現在の角柱型墓石は新しいものといえる。
さらには、その隣には、卵のような「無縫型」墓石が並んでいた。禅僧の歴代住職の墓のようだ。宇宙の根源は無我にあり、すべてをつなげていくと卵型になるので「無縫」というらしいが、どうも納得しがたい。31代の住職の墓があったから、行基が創建したという瑞雲院の歴史の重さを引きずっている。