ブラックサイト
2008年/アメリカ
描けない結末
総合
60点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
題材は悪くはないのだが、題材が良過ぎることでかえって持て余している感じは拭えない。元々ネットで見る映像と映画の映像の相性が悪いのかもしれないが、どう考えても被害者の拉致や処刑場などの込み入ったセッティング、誰にも見られないようにした死体の処理の仕方など単独でできるようなものではない。犯人の犯行の動機が弱いという意見も納得できるが、しかしもし犯人が無差別殺人犯だとするとターゲットは誘拐しやすい子供になる。子供の処刑シーンがある映画は上映できないであろう。ネットの映像と映画の映像の相性が悪いというのはそのような意味である。
見所を挙げるとするならば、むしろグダグダで終わるラストシーンであろう。ネット犯罪専門捜査官であるジェニファーが自力で拉致から脱出して犯人を銃殺した後、自分が捜査官であることを証明するためカメラに向けて警察証を示して唐突に終わってしまうのである。つまり公開処刑のようなことはさせないために犯人を捕まえるはずが、犯人を殺すことでいつの間にか捜査官自身が犯人と同じことをしてしまうというジレンマが描かれるのである。その上最後に示される膨大なスレッド数は別の動機でそれだけの数の人間が同じようなことをしているという暗示であり、その救いのなさがあのような結末になったのだと思う。
ちなみに最初にネコが殺された理由は「Curiosity killed the cat(好奇心はネコを殺す=あまりせんさく好きだと面倒に巻き込まれる)」という知りたがりをいさめる諺からきている。
フィクサー
2007年/アメリカ
シヴァ神としてのフィクサー
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
この作品がいわゆる他の‘弁護士モノ’の映画のようにサスペンス感やスリリング感に欠けるように見えるとするのならば、それは‘フィクサー’として活躍する主人公マイケル・クレイトンの息子ヘンリーの愛読書である『王国と征服(Realm and Conquest)』の影が終始この作品を覆っているからであろう。
ヘンリーに限らず10歳くらいの男の子であるならば、自分の国を造って王様になるというような夢を持つであろう。しかし大人になり現実の‘王国’がどんなものなのか見渡してみると、例えばこの作品に描かれている農薬会社U・ノース社のように不正の上に築かれているものが少なくない。だからヘンリーを通して‘本来の夢’を思い出したマイケルの同僚であるアーサー・イーデンスは(被害者である‘子供’のアナを呼び出したりして)自分の担当であったU・ノース社の不正を暴くことにするのである。アーサーがいきなり服を脱ぎだすことについて彼が気が狂ったように扱われるが、‘子供’のように自分のありのままの姿を見せるという行為であると見做せば、U・ノース社の法務部本部長であるカレン・クラウダーが終始自分の身なりを気にする‘大人’であることと対照的に描かれていることが分かる。
このように‘大人’と‘子供’に挟まれた主人公のマイケル・クレイトンの性格も不思議である。あれほど弁護士として有能な‘大人’であるのに‘カードゲーム’が大好きな‘子供’でもある。つまりマイケルは事件のフィクサーであると同時に、‘大人’と‘子供’の溝のフィクサーでもあるという二重性が物語に深みを与えているのである。
しかし『王国と征服』という小説はこの作品のために創作されたものである。つまり内容がない。既存の小説を利用すればもっと計算外に深みが増し、例えば3頭の馬のシーンなどもっと意味深長になったように思われる。ちなみにシヴァ神とは破壊神であるとともに創造神でもあるヒンドゥー教の神。
クローバーフィールド/HAKAISHA
2008年/アメリカ
確信犯
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
この作品を「ゴジラとブレア・ウィッチ・プロジェクトを合わせたようなもの」と評しているのを見かけた。主人公が仕事で日本に赴任するという設定は『ゴジラ』を思い出させるし、確かに映像の作り方は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』と同じではあるが、制作費の桁が違う。
周知のとおり『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は駄作という以前に映画ではなかったのであるが、『クローバーフィールド』が映画になっている要因はハンディカメラが私たちにとってより身近なものになり、手振れの映像を見慣れたことに加えてやはり「9・11」があったからであろう。アメリカで大ヒットしているのも彼らが心に抱えている‘9・11的映像’を刺激されたからだと思う。最後の方で‘怪獣’の姿が露になるのだが、それでもなお‘怪獣’の姿形がよく分からないところなどアメリカ人にとっての‘イスラム教’であろう。
粗の多い作品ではあるが、予め言い訳は周到に用意されている。カメラに不慣れなハッドによって撮影されているからカメラワークは悪くて当たり前であり、あのような状況の中でも撮影を続けるのも「9・11」を経験している上での記録を残さなければならないという使命感からであり、きちんと編集されていないのも生き残った人たち(?)が全てを確認しているからというように思わせる。
ラストで2人が悲惨な顔で遺言を残した後、ひと月前の映像に変わり同じ2人が「今日は良い一日だった」と笑顔で終わるシーンは、勿論、物語も明確な映像もないこの映画を不快な思いで観続けたカップルに対する皮肉である。そういうの、嫌いではない。
柴咲カンフー、世界に殴り込み!!香港プレミア大盛況(サンケイスポーツ) - goo ニュース
この作品『少林少女』に限らず『カンフーくん』や『カンフーパンダ』などカンフーネタ
がカブってしまっているのは、勿論北京オリンピック開催年だからということであろう。
『少林少女』の作品としての出来が良いのか悪いのかはともかくとして、それにしても
「北京=カンフー」という誰でも思いつくような方程式はあまりにも安易過ぎるのでは
ないのだろうか? その上主人公は「少女」「男の子」「パンダ」と観客に媚を売り
過ぎである。本当に深刻に映画界はネタに困っていると感じるのである。