つぐない
2007年/イギリス
‘つぐなった’のは誰なのか?
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
この作品を観終わっても、果たしてタイトルになっている「つぐない」が何を指しているのか分からない。少なくとも主人公であるブライオニーがつぐなっているのかどうか疑問が残る。
思い返せば、ブライオニーは孤独な13歳の少女だった。脚本を書いても誰にも付き合ってもらえず、ほのかに恋心を抱いていたロビーの気持ちを確かめようとワザと池に飛び込むのだが、かえってロビーを怒らせてしまう。だから彼女はロビーと姉のセシーリアの関係が気になる。ブライオニーにとって10歳くらい歳が離れているセシーリアは姉である以上に恋敵なのだ。だから手紙を読んだ時も、2人の‘逢引’を目撃した時も‘文学少女’であるブライオニーが抱いた気持ちというのはショックではなく嫉妬だったのだと思う。
そしてローラが何者かに襲われた時も、ブライオニーは嫉妬したのだと思う。「何故ロビーは私だけを相手にしないのか?」と。ブライオニーは犯人の顔を見たはずだが、その顔を彼女の記憶から奪ったのは嫉妬心であったのだ。しかしブライオニーは悪意で嘘をついたわけではない。悪意で嘘をついたのならば後悔するはずがない。悪意ではなく、むしろ彼女の心が愛に翻弄されたというべきであろう。実際、ブライオニーはローラが結婚する時、ローラを襲った犯人がローラの結婚相手であるポールであることを思い出し、ロビーでなかったことを確信することになる。この作品の中で‘つぐない’といえる行為はこのポールの結婚だけである。彼女自身にもまだよく分からなかった愛という情に翻弄されて犯してしまった罪をつぐなえと誰が13歳の少女に対して言えるというのだろうか? つまりこの作品はブライオニーのつぐないが描かれているのではなく、つぐないという行為がはらむ想像を絶する威力(=神聖さ、不可能性)と、それを目撃したブライオニーの、人生が一変してしまうほどの衝撃が描かれていると思うのだが、他のレビューを読む限り正確に伝わっていないということは、多少分かり難いのかもしれない。
ちなみに作品内で上映されていた映画は、絶望の中でも小さな幸せを求めるラヴストーリー『霧の波止場(Le Quai des Brumes)』である。
ミニチュアの家から始まり、‘理想’の家で終わるのだが、そこに住むべき人たちがいないことが悲しみを誘う。
洞爺湖サミット会場のホテル料理長を暴行容疑で逮捕(読売新聞) - goo ニュース
「たかがファストフード店の分際で、フランスの名門料理店の支店『ミシェル・
ブラストーヤジャポン』の料理長である俺様に意見をするな」という気持ちになる
ことは分からないわけではないが、そうであるのなら何故それほど舌の肥えている
人間がファストフード店のバーベキューソースごときを手に入れようとしたのかが
理解できない。しかしこの事件は嵐を予感させないだろうか? 各国から集まって
くるだろう環境問題に“肥えた”人々が腹を立てて今回のように暴れそうな気がする
のである。幸運を祈る。