ノーカントリー
2007年/アメリカ
「『ノーカントリー』に失笑する」に失笑する
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
慶応大学の教授で文芸評論家の肩書きを持つ福田和也という人がいるのだが、彼が週刊新潮4月3日号の「福田和也の闘う時評」という欄に「『ノーカントリー』に失笑する」(P.140-P.141)というタイトルの文章を載せている。その時評のあまりの酷さに失笑してしまった。彼の文章を介して、オープニングで久しぶりにアメリカの広大さを確認させてくれた傑作『ノーカントリー』を論じてみたい。
まずは福田氏の文章を一部引用してみる。
「助演男優賞を受賞したハビエル・バルデム演じる殺人鬼シガーはたしかに迫力があります。キャスティングはもちろん、特殊な髪型から台詞回しにいたるまで、強烈な存在感を示していることは事実なのですが、それが余りに強烈であるがゆえに、あらゆるドラマツゥルギーが破綻している。(・・・)もちろん、コーエン兄弟は『ターミネーター』のようなSF映画を撮りたかったわけではないでしょう。理解不能な悪や暴力を描こうとしたのでしょうが、シガーの人物像は極端にすぎる。理解できないという無力さは、理解しようとする努力があってこそもたらされるものなのですが、コーエン兄弟の演出はその努力をはじめから拒んでいるのです。(・・・)保安官が自分自身のなかに、そうした暴力性なり、狂気なりを見いだしたならば、ある種の拮抗関係が生まれるだけでなく、その血なまぐささは観客にとっても他人事ではないものとして迫ってくるのでしょうが ― たとえばサム・ペキンパーの作品は、そうした双方向性こそを、つまり正義とされる側も悪と断罪される、止むに止まれぬ衝動として描いています ― ここでは悪はひたすら凶悪であり、その対岸に居る者は嘆息するだけなのです。トミー・リー・ジョーンズが、ここまで大根に見える作品も珍しいのではないでしょうか。缶コーヒーのCMが懐かしくなるほど、抑制を欠いた平板な存在です。ですから、麻薬密輸団の金を奪って逃げたジョシュ・グローリン演じるベトナム帰還兵の最期や、幕切れの交通事故など、往年のコーエン兄弟を彷彿とさせるシャープな演出も、その場かぎりの衝撃しか残さない。(・・・)ついに引退した保安官がテス・ハーパー扮する妻に、昨夜見た夢の話をする場面は、その意味あいがいかなるものなのか、アメリカでも議論を呼んでいるようですが、演出の破綻が露呈しただけではないでしょうか」
恐らくコーエン兄弟の作品の全てを観ている福田氏に対して、ほとんど観ていない私が批判するのは心苦しいかぎりなのだが、一読してもらえば分かるように残念ながら可愛そうなくらいに福田氏は『ノーカントリー』を全く理解できていない。
殺人鬼シガーの人物像が極端すぎてドラマツゥルギーが破綻しているというが、自分に抵抗する人物は必ず殺していくシガーほど分かりやすい人物像もないのではないのだろうか。たまに気まぐれにコイントスをして、運良く相手が当てれば見逃すくらいである。そのようなシガーの極端な‘合理性’がラストの交通事故のシーンに効果的な‘ドラマツゥルギー’をもたらすのである。車に乗っているシガーは青信号を確認して当然のように交差点を通行しようとする。そこで信号を無視して猛スピードで侵入してきた車に突っ込まれ、無敵のシガーの‘合理性’は崩壊するのである。
「保安官はつねに後手にまわり、理解不能な相手の徹底した残虐さを前にして立ちすくむばかりで、何のスリルも生まない」と福田氏は書くが、『ノーカントリー』という作品は、まさに世界は理解不能で立ちすくむしかなく、世界を牛耳っているのは大金を拾ったり、交通事故に遭遇したりする偶然だということを描いているのであり、原題「No Country for Old Men」の意味は、そのような偶然が跋扈する土地は若者たちはその偶然に対して俊敏に対処することもできるだろうが年老いた者たちのための土地にはならないということになる。因って破綻しているのは『ノーカントリー』ではなく福田氏の時評の方であることは間違いない。「分析的な基準を統一的にもうけることはできない」とかつて言っていたのは福田氏本人のはずなのだが。
ワッハ上方、移転反対2万人署名 「文化が消える」藤本義一さん憤り(産経新聞) - goo ニュース
「ワッハ上方は、現在の場所で鼻で息を吸い(客を呼び込み)、口で吐く(客を
楽しませる)という正しい呼吸法ができている。施設移転というのは、耳で呼吸しろ
というもの」と藤本義一の文化を擁護する時に必ず使われるお決まりのレトリック
自体に文化の衰退を感じることは情けで目をつぶるとしても、結局、赤字が続いて
いるということは大阪府民はそのような“文化”をもう必要としていないということでは
ないのだろうか? 必要とされない文化が消えることに何か問題があるのか?
もし問題があるのならば集客努力をすればいいのである。努力といっても簡単な
ことである。要するに客を笑わせればいいだけのことだ。それにそんなに残したい
のであるのならば、私財を投じればいいのだ。
大いなる陰謀
2007年/アメリカ
Won't Get Fooled Again, but......
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
この作品はいわゆる‘ハリウッド映画’ではない。監督がロバート・レッドフォードではなく、トム・クルーズとメリル・ストリープが出演していなければ、ただの‘哲学的対話’をフューチャーしたようなインディペンデント的映画である。
ところでロバート・レッドフォードは本当に共和党批判のためにこの作品を制作したのだろうか? もしそうならば話されている議論が難し過ぎる。共和党上院議員であるアーヴィングは自分が計画した軍事作戦でアフガニスタンに攻撃をしかけるが失敗する。その犠牲になった2人、メキシコ系アメリカ人のアーネストとブラックアメリカンのアリアンはマレー教授の優秀な教え子であり、高い志を持って戦地に赴いたが戦死してしまう。新しい軍事作戦の話をアーヴィングから直接聞いたジャーナリストのロスはその話が真実なのかどうか分からない。今までの戦争に関する情報の提供の仕方の反省からどうしていいのか分からなくなってしまう。2人の優秀な生徒を戦地に赴くことを止められなかったマレー教授は、優秀だがサボりがちなトッドを呼び出して強い意志をもって行動するように諭すが、トッドは聞く耳を持たない。
トッドを除けば彼らは積極的に行動を起こして社会を、そして世界を少しでも良くしようと試みるのだが、結果的に全て失敗することになる。特にマレー教授の生徒に対する発言は矛盾している。結局、トッドに無関心でいるよりも兵士にでも志願して戦えといっていることにならないのか? そしてその矛盾はマレー教授だけにとどまらず、彼を演じているロバート・レッドフォードにも当てはまる。9.11以降のアメリカが関わっている戦争に対して問題提起したいという想いがこの作品の制作させた(=行動を起こした)のだと思うが、アメリカでの興行成績は惨憺たるものではっきり言って失敗したのだ。まさにこの作品内容の正しさを証明したことになった。言い換えるならば皮肉にもこの‘大失敗’が‘成功’ということになったのだ。それは原題『Lions for Lambs』にも当てはまる。誰がライオンで誰が子羊になるのかは結果次第だからだ。アーヴィングの作戦が成功していれば彼がライオンになれる。
トッドの最後のセリフが興味深い。彼は「I'm not failing(僕は落第はしていない=僕は失敗はしていない)」と二重の意味で言っている。確かに行動を起こさない限り失敗はしない。それは現実から逃避しているように見えるが、これまで見てきたようにたとえ行動したとしても‘成功’することがない状況の中で私たちはどうすればいいのだろうか? ロバート・レッドフォードは政治以前の問題として老いた体に鞭打ってこの問いを観客に投げかけたかったのだと思う。