特集:官能の帝国ロマンポルノ再入門2~バトンは受け継がれる~
-年/日本
ポルノ映画による‘反ポルノ’
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
昨今制作されているポルノ映画というものを観たことがないので、70年代、80年代に制作されたロマンポルノと現在のポルノ映画の違いなど分からないのであるが、昔のロマンポルノというものは徹底して‘反’ポルノ映画という印象が残った。
勿論ポルノ映画を観るということは性行為そのものよりも‘目の保養’が目的であるのだが、例えば『夫婦秘儀くらべ』や『横須賀男狩り 少女・悦楽』のように知り合いの人間の性行為を見ることで興奮している人物を登場させる作品を見せられる観客は、自分たちの‘戯画’を見せられて興奮できるものだろうか? だから藤田敏八監督の『横須賀男狩り 少女・悦楽』は自分の処女を犠牲にしてまで姉の復讐を遂げる主人公きっこの青春映画として観るべきなのだろう。
では黒沢直輔監督の『ズームイン 暴行団地』はどうだろうか? 冒頭のシーンで主人公冴子は夫にコンドームを付けさせて性行為をし、犯人が女性を犯した後に被害者の股間に火を放つことから、この作品はホラーの様相を呈しており徹底して子作りとしての性行為を否定する。
荒木経惟監督『女高生偽日記』の冒頭で監督自ら出演して説明するように、この作品は『不思議の国のアリス』をモチーフにして作られており、ウサギを追いかける女の子がある建物に入るところから物語は始まる。そしてラストで主人公リカが夢から目覚めると、そこにいるのは姉ではなくて弟であり、主人公は弟と性行為に及ぶ。ラストシーンは街中にある灰皿の上に乗っかっているウサギである。‘薄汚れた純粋さ’で観客は興奮できるだろうか?(私にはこの作品の途中でいきなり挿入されている葬儀のシーンの意味が分からなかった。)
では詩人金子光晴のラブレターを下敷きにして制作された東陽一監督の『ラブレター』が文学性が高いかというとそうでもない上に、ポルノ映画としても十分ではないように思う。この作品で描かれていることは愛し合っている人間は一緒になれないのに、愛し合っていない人間同士は一緒にいて心地がいいのにお互いに愛を感じないという矛盾である。主人公の有子と彼女の隣に住む女性の夫と一緒に隣同士でブランコに‘交わる’ことがないまま乗るラストシーンが印象に残る。
‘ポルノ度合’としては石井隆監督の『天使のはらわた 赤い眩暈』の方がはるかに高い。しかしこの作品には愛が存在しない。最初から最後まで全ては偶然に任されたままなので、結局主人公の名美は最後に村木が来なくても「まっ、いいか」の一言で終わらせられるのである。愛が存在しないのではなく、愛とはその程度のものだということなのだろうか?
森田芳光監督の『ピンクカット 太く愛して深く愛して』は明らかに昨今のAVヴィデオのパロディであろう。‘ポルノ界の聖子・寺島まゆみとポルノ界の百恵・井上麻衣が夢の共演’というコピーは有名人に似た女性を主演にするAVヴィデオそのものであり、出演者が棒読みでセリフを言うところも同様である。
とりあえず観ることができた範囲での感想でしかないのであるが、機会があったらまた観に行きたいと思う。
民主・鳩山氏、鴻池副長官に辞任求める=スキャンダル理由、麻生首相は「知らない」(時事通信) - goo ニュース
鴻池の今回の“スキャンダル”に関する麻生のコメントが面白い。「詳しく知らない。
ただ議員宿舎に人が入ることは何らおかしいわけではない」と指摘している。記事
では“議員宿舎に”の後に(国会議員以外の)と丁寧な注が付けられているのだが、
麻生はそのような意味で発言したのではないと思う。麻生はただ単に「議員宿舎に
“人”が入ることは何らおかしいわけではない」と当たり前のことを言ったにすぎない
と思う。要するに麻生の発言は揚げ足を取られないためのトートロジーなのである。
意味の無いことを言うのであるならば今後記者会見を得意の英語でしてもなんら
問題はないであろう。