寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

大講義室を抜け出して時間を潰した場所

2010年11月16日 | 学生時代
大講義室を離れた不良学生が向かう先は鷹野橋商店街だった。入口左横の書店ではよく立ち読みした。軍資金のある時には書店向かいのパチンコ屋でしばらく涼んだ。悪友は1時間ちょっと経過したことを確認すると「そろそろ帰ろうぜ」と言った。幾ばくか懐の温かくなった私達は再び大講義室に戻るのである。

マルキストS田教授はエスケイプ学生対策として授業終了の20分前に再度出欠を取っていた。私は何食わぬ顔をして歯抜け状態の教室に潜り込み数人分の代返までこなした(笑)

大講義室の授業は一般的に楽勝(単位が取りやすい)と言われており、この「社会学」は有名科目であった。教授は教科書(自著)を読み上げ適当に解説を加え学生らが筆記するための間を取っていた。所謂旧帝国大学で行われた筆記学問の延長である。この問題は「日本の近代 第12巻 付録(中央公論新社 1994年4月)」の猪瀬直樹さん(1946年生)と竹内洋さん(1942年生)の対談で面白おかしく取り上げられている。私より2回り上の世代が受けた教育とほとんど差異はないことがわかる。

「社会学」はマルクスの洞察力のすばらしさを褒めちぎることに力点が置かれていたが、そこから派生した共産主義(全体主義)の恥部について語られることはなかった。資本家と労働者の対立構造を長々と説くだけで農民も漁民も出てこない。簡略モデルを日本にそっくりそのまま当てはめること自体に無理があった。

エスケイプ学生は学習能力が低かったというよりはむしろ講義が胡散臭いのを漠然と見抜いていたのではないかと今では思う。教授と同門にあたる作家・杉森久英さんの回想からは赤化しかけた戦前の学生の多くは流行りものに飛びついただけだったという事実が浮かび上がってくる。私達が高等教育を受けた昭和の末においてマルクスは既に「カビ臭いもの」として認識されていた。

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昭和末期の広島電鉄・鷹野橋電停周辺

2010年11月16日 | 学生時代
昭和62(1987)年初夏。東千田キャンパスの大講義室(我々学生は略してだいこうと呼んだ)は灼熱地獄と化していた。数百人の学生を収容する教室に冷房設備は無かった。

私は講義室の後方(左手)に設けられた出入口近くに陣取り欠伸を連発していた。マルクスを神と仰ぐ教授は講義開始から20分ほどして聴講生の名前を読み上げていた。

「法学部 学生番号××××××× みたらい君」

ある程度講義に出ていないと不利だと聞いていたので私達は返事を済ませてから退席するのだった。堂々と出て行く学生があまりに多いので教授(旧制四高卒)はひどく腹を立てていたという。

悪友(被爆2世)と連れ立って正門を出て「かむろ」「会計学院」の前を通過する。そして広島電鉄「鷹野橋電停」辺りから横断歩道を渡って商店街を目指した。

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