寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

竹原市の旧明神港前

2011年10月28日 | 
奥さんは「もうじきですから」と言った。私は頷いて年季の入った建物の造りを観察していた。戦前に建てられたものに間違いないだろう。

独自の世界に入り込んでいた私を現実に引き戻したのは犬の鳴き声であった。真新しい家の庭先で興奮した犬がこちらを向いていた。

「この犬は私に吠えるんですよ」

「いえ、奥さんにではなくて私ですよ、絶対に。余所者を恐れているんですな。怖がらなくていいよ。何もしないから」

私と奥さんは目を合わせて苦笑した。それからすぐに非常に狭い路地に入った。寺に続く石段の下には大きな井戸があった。

今は使われていない井戸

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竹原市竹原町の裏道を往く(その6)

2011年10月28日 | 
奥さんと私は会話を楽しみながら湊明神社まで戻ってきた。「この辺りは横島と言います。横に広がっているように見えることから名がついたようですが、昔は地続きじゃなくて島だったんですね」と奥さんから聞いて「福山市における箕島みたいなものだな」と思った。

旧明神港前の道を南西の方向に進む。道路の左手(海寄りの広場)が昭和に入ってから埋め立てられたものであることを即座に悟った。私の頭には大正十五年五月二十日発行の廣島縣賀茂郡竹原町の地図(あき書房による復刻)がしっかりと入っていたからである。

湊明神社
 横島の東端にある。この社の近くに船が停泊したので湊明神と呼ばれ、古くからの鎮守社があり、明暦(1655~1657)年中に厳島の神をこの社に移し塩浜の守護神としたという。江戸期は湊明神社付近の沖が湊で諸国の廻船が集まり、潮によって大船はここで荷あげをし、中船、小船は本川堀を利用した。また的場山の北側にも船入があった。明治以降、大阪商船、尼崎汽船が寄港し呉線開通までの内海航路の港として栄えた。

『安芸の小京都たけはら / 太田雅慶(昭和62年2月10日発行)』

廣島縣賀茂郡竹原町の地図(大正十五年五月二十日発行の復刻版 現在とは海岸線が大きく異なる)

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