国道2号線(敗戦からしばらくしてバラックなどを撤去して造った広い道路)ときたはま通り(旧入江)が斜めに交わる地点が御船町1丁目交差点である。2号線沿いの歩道をチャリをこいで駅前に向かう少年(私)は斜めにのびる道が入江を埋め立てて出来たと教わるまでは変に感じていた。数年前にオープンした御船町2丁目7‐15の「ヘアーサロン」の位置にかつて「朝日タクシー」のビルがあった。
さて再び話を昭和20年(1945)8月8日にもどそう。空襲で火傷を負って入江に飛び込み溺死した人の話はよく聞くが、入江があったために九死に一生を得た人もいたのである。『福山空襲の記録 / 福山空襲を記録する会(昭和五十年八月八日発行)』より土井静子さん(当時 主婦 三十才)の手記「お父さんのことはかまわないで」の一部をご紹介しよう。
昭和十四年に私達は結婚し、主人の勤務先岡山に住まいをもちました。
私達は六月に岡山で空襲にあり、福山へ帰って再び恐ろしい空襲にあいました。福山にかえって一か月あまりした八月八日いよいよその日がやって参りました。御船町の実家には年老いた両親と、それゝ゛勤務先に主人を残して女ばかりが二人三人と幼児をつれて疎開して来ていました。家には老人と女子供ばかり。いざという時にはどうすればよいかといつも心配していました。殊に父は病気で身体が不自由でしたので、空襲警報が出る度に生きた心地のないような恐怖を感じていました。
…市内のあちこちからも次々と火の手が上がり始め、御船町にもたくさんの弾が落ちてきました。
…火の中をくぐるようにして、やっとの思いで浜まで出て、そこにあった防空ごうに飛びこんだ時には、子供も私もモンペはやぶれ、かすりきずが出来、大事なものを入れて肩にかけていた袋もどこでひもが切れて落ちたのかなくなっていました。頭にかぶっていたふとんもどこかへ落としていました。そして姉達ともはなればなれになってごうの中に母と私達だけがおりました。中にはよその方が二三人とミシン等が入れてありました。この防空壕のあった場所は、今、朝日タクシーのビルがある入船の国道二号線の交差点あたりになると思います。
…いらゝしているうちに壕の入口の前の道を一つへだてた家並がみるみるうちにもえてきました。ものすごい風がおこり、すさまじい火勢にてあれこそ地獄ではないかと思いました。そのうち壕の前の家まで燃えてきて、その火で、入口の柱がくすぶりかけてきました。…そこらのものでたたいたり、消したりしているうちに、入江ですから潮が満ちて来て、みるみるうちに、足のすねぐらいになり、火が柱につきかけた頃には、男の人がバケツで潮をくんでかけては消してしまいました。
家が焼け落ちて、もう火のつく心配もなくなった頃に長かった夜も明けそめ、B29ももういませんでした。
そろそろと出て見ると天守閣も焼け落ち福山の街は一夜のうちにみるかげもなくなっていました。まだ、あちこちからは火の手も上がっております。町中くすぶっています。…私は父の事が心配で、焼けたそこここ、家のいけりのあつさをふみながらようやく姉の所へ帰ってみますとあたりは焼野原で家らしい物は一つもなく、父は家のやけるいけりでやけたのでしょうか。畠の中で亡くなっていました。
覚悟していたとはいえ「おとうさんの事は心配しないで早くにげてほしい。」といった時のあの涙ぐんだ、悲しい声や顔が三十年後の現在でもまざまざと目にうかんではなれません。
さて再び話を昭和20年(1945)8月8日にもどそう。空襲で火傷を負って入江に飛び込み溺死した人の話はよく聞くが、入江があったために九死に一生を得た人もいたのである。『福山空襲の記録 / 福山空襲を記録する会(昭和五十年八月八日発行)』より土井静子さん(当時 主婦 三十才)の手記「お父さんのことはかまわないで」の一部をご紹介しよう。
昭和十四年に私達は結婚し、主人の勤務先岡山に住まいをもちました。
私達は六月に岡山で空襲にあり、福山へ帰って再び恐ろしい空襲にあいました。福山にかえって一か月あまりした八月八日いよいよその日がやって参りました。御船町の実家には年老いた両親と、それゝ゛勤務先に主人を残して女ばかりが二人三人と幼児をつれて疎開して来ていました。家には老人と女子供ばかり。いざという時にはどうすればよいかといつも心配していました。殊に父は病気で身体が不自由でしたので、空襲警報が出る度に生きた心地のないような恐怖を感じていました。
…市内のあちこちからも次々と火の手が上がり始め、御船町にもたくさんの弾が落ちてきました。
…火の中をくぐるようにして、やっとの思いで浜まで出て、そこにあった防空ごうに飛びこんだ時には、子供も私もモンペはやぶれ、かすりきずが出来、大事なものを入れて肩にかけていた袋もどこでひもが切れて落ちたのかなくなっていました。頭にかぶっていたふとんもどこかへ落としていました。そして姉達ともはなればなれになってごうの中に母と私達だけがおりました。中にはよその方が二三人とミシン等が入れてありました。この防空壕のあった場所は、今、朝日タクシーのビルがある入船の国道二号線の交差点あたりになると思います。
…いらゝしているうちに壕の入口の前の道を一つへだてた家並がみるみるうちにもえてきました。ものすごい風がおこり、すさまじい火勢にてあれこそ地獄ではないかと思いました。そのうち壕の前の家まで燃えてきて、その火で、入口の柱がくすぶりかけてきました。…そこらのものでたたいたり、消したりしているうちに、入江ですから潮が満ちて来て、みるみるうちに、足のすねぐらいになり、火が柱につきかけた頃には、男の人がバケツで潮をくんでかけては消してしまいました。
家が焼け落ちて、もう火のつく心配もなくなった頃に長かった夜も明けそめ、B29ももういませんでした。
そろそろと出て見ると天守閣も焼け落ち福山の街は一夜のうちにみるかげもなくなっていました。まだ、あちこちからは火の手も上がっております。町中くすぶっています。…私は父の事が心配で、焼けたそこここ、家のいけりのあつさをふみながらようやく姉の所へ帰ってみますとあたりは焼野原で家らしい物は一つもなく、父は家のやけるいけりでやけたのでしょうか。畠の中で亡くなっていました。
覚悟していたとはいえ「おとうさんの事は心配しないで早くにげてほしい。」といった時のあの涙ぐんだ、悲しい声や顔が三十年後の現在でもまざまざと目にうかんではなれません。