竹原港待合所を過ぎると美しい穏やかな海が広がっていた。防波堤そばに車を停めて釣りをする人、弁当を食べる人、昼寝する人など、静かな港周辺では様々な動きがある。
小舟をしばらく眺めた後、海岸に沿って更に南へ足を進めた。鉄工所と肥料店の前からは対岸の小高い山がはっきりと見えた。水軍の砦としての的場城があった付近だ。JR竹原駅から歩き出して20分が経過していた。
竹原塩田
竹原は往昔、明神、的場の二山を入口とし海潮深く灣入して一大入江をなし、蘆荻繁茂、所謂竹原の庄の一部として、古稱葭の浦の一寒村にすぎなかつた、
徳川時代淺野藩は浦邊奉行を置き、正保年間鈴木重仍任に在るや自然作用に依る干潟の生成を利用して大新開を築き、遂に今日の盛大な竹原塩の起原を見るに至つた、
『広島県史蹟名勝写真帖<目で見る風土記>(歴史図書社 昭和五十二年八月三十日発行)』
小舟をしばらく眺めた後、海岸に沿って更に南へ足を進めた。鉄工所と肥料店の前からは対岸の小高い山がはっきりと見えた。水軍の砦としての的場城があった付近だ。JR竹原駅から歩き出して20分が経過していた。
竹原塩田
竹原は往昔、明神、的場の二山を入口とし海潮深く灣入して一大入江をなし、蘆荻繁茂、所謂竹原の庄の一部として、古稱葭の浦の一寒村にすぎなかつた、
徳川時代淺野藩は浦邊奉行を置き、正保年間鈴木重仍任に在るや自然作用に依る干潟の生成を利用して大新開を築き、遂に今日の盛大な竹原塩の起原を見るに至つた、
『広島県史蹟名勝写真帖<目で見る風土記>(歴史図書社 昭和五十二年八月三十日発行)』