私はJR呉線の竹原駅で下車した。忠海の町との違いを見ておきたいと思ったからだ。安芸の小京都と形容される竹原は江戸時代賀茂郡下市村と呼ばれていた。『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』は文教の町「竹原」の生いたちをこう解説している。
竹原はもと下市、下野、東野、西野、新庄の、五カ村の総名で、徳川時代の割庄屋支配地域としての竹原組は、これに西野の分村である仁賀および上三永、下三永の両村を含んでいた。下市が竹原町の名を専ら使うようになつたのは、塩浜成立以来のようである。下市村が下野村より分離したのは天文九年(一五四〇)のことと「柏木累系」に見えている。
昭和33年(1958)11月3日賀茂郡竹原町と豊田郡忠海町が合併し竹原市が誕生し、役所は旧竹原町の方に置かれて現在に至る。

竹原はもと下市、下野、東野、西野、新庄の、五カ村の総名で、徳川時代の割庄屋支配地域としての竹原組は、これに西野の分村である仁賀および上三永、下三永の両村を含んでいた。下市が竹原町の名を専ら使うようになつたのは、塩浜成立以来のようである。下市村が下野村より分離したのは天文九年(一五四〇)のことと「柏木累系」に見えている。
昭和33年(1958)11月3日賀茂郡竹原町と豊田郡忠海町が合併し竹原市が誕生し、役所は旧竹原町の方に置かれて現在に至る。

