船町1の歩道に建てられた天下橋のモニュメント。背後に見える建物が広陽ビルディング(元町15-19)で戦前はここに不動貯金銀行が存在した。福山の文化の中心であった船町界隈は残念なことに戦災で焼失している。
『福山空襲の記録 / 福山空襲を記録する会(昭和五十年八月八日発行)』は市民(生存者)の手記を寄せたものであるが、浅利定一さん(当時不動貯金銀行勤務 三十一才)の「地獄さながらの一夜(実際は聞き書き)」は当日の船町周辺の惨状を知る上で非常に価値あるものだと思う。
空襲の頃、私は妻と二人で光南町の田中というとこに住んでいました。私の勤務先は、船町の不動貯金銀行(現在のシューズ・ショップ・ルミエ支店のところ)で、私は、貯金主任をしていました。
昭和二十年八月八日、私は銀行で当直をしていました。なにしろ、戦時下でもありますし、加えて、警備という責任がありますので、衣服をつけたまま休んでおりました。午後九時二十分頃でしょうか。警戒警報のサイレンが鳴り、殆ど同時に、空襲警報のサイレンがあわただしくなりました。そうして、間髪を入れず、照明弾が投下され、ついで、ザーッという音とともに、焼夷弾がばらばらと落ちてきました。私は、照明弾が投下されるや直ちに銀行の二階へ上がりました。その時には、もう手城・宇山・奈良津方面が真赤に燃え上がっていました。やがて、箕島の沖から、B29が大編隊をなし、市の中心部に対して、集中攻撃を開始してきました。…私は、あわてて裏の遊園地の防空壕へ避難しました。ところがB29が上から石油をたくさん落としてきたのです。それに火が燃え移るので、到底そこへおることはできません。(確か、誰かここでも亡くなったはずです)私は、自転車を捨て、できるかぎり軒下を通りながら、一目散に銀行から医者町を通り、光南町の自宅へ帰りました。帰る途中は、すでにあちこちが燃えており、殆ど人影はありませんでした。…やっての思いで家に着くと、妻のほかに、近所の人が二、三人いました。その頃になると、焼夷弾攻撃は、ますますか烈を極め、前の畑のいもづるさえ、燃えていきました。
とにかく、身のおきどころのないほど焼夷弾が落ち、おるにおられず、逃げるに逃げられずという状態でした。どうしようかと迷っているとき、焼夷弾を入れる筒が、妻の胸に落ち、妻が、私の目前で倒れたのです。勿論、即死でした。…ちょうど隣に、近所の伊藤武さんがいたので、相談すると「そこのドブへ入ろう」というので、すぐさま、ドブの中に飛び込みました。防空頭巾をかぶり、荷物を背負ってじいっとしていました。…私のすぐ近くに、焼夷弾の束になったのが落ちてきました。そのため私は、焼夷弾の爆風で「あっ」という間に、一間ぐらいうちあげられ、はねとばされて、みぞへ落ちました。瞬間、私は、もう駄目だと思いました。…腰の骨が折れていたのです…体が燃えつくされるのではという熱さに苦しめられ、また、ときどき鳴る不発音の爆発におびえながら、とうとうドブの中で、まさに、阿鼻地獄そのものの一夜をあかしたのです。
※著者注
阿鼻地獄(あびじごく)…八大地獄の一つで、死者が絶えず苦しみを受ける地獄のこと。無間地獄ともいう。
『福山空襲の記録 / 福山空襲を記録する会(昭和五十年八月八日発行)』は市民(生存者)の手記を寄せたものであるが、浅利定一さん(当時不動貯金銀行勤務 三十一才)の「地獄さながらの一夜(実際は聞き書き)」は当日の船町周辺の惨状を知る上で非常に価値あるものだと思う。
空襲の頃、私は妻と二人で光南町の田中というとこに住んでいました。私の勤務先は、船町の不動貯金銀行(現在のシューズ・ショップ・ルミエ支店のところ)で、私は、貯金主任をしていました。
昭和二十年八月八日、私は銀行で当直をしていました。なにしろ、戦時下でもありますし、加えて、警備という責任がありますので、衣服をつけたまま休んでおりました。午後九時二十分頃でしょうか。警戒警報のサイレンが鳴り、殆ど同時に、空襲警報のサイレンがあわただしくなりました。そうして、間髪を入れず、照明弾が投下され、ついで、ザーッという音とともに、焼夷弾がばらばらと落ちてきました。私は、照明弾が投下されるや直ちに銀行の二階へ上がりました。その時には、もう手城・宇山・奈良津方面が真赤に燃え上がっていました。やがて、箕島の沖から、B29が大編隊をなし、市の中心部に対して、集中攻撃を開始してきました。…私は、あわてて裏の遊園地の防空壕へ避難しました。ところがB29が上から石油をたくさん落としてきたのです。それに火が燃え移るので、到底そこへおることはできません。(確か、誰かここでも亡くなったはずです)私は、自転車を捨て、できるかぎり軒下を通りながら、一目散に銀行から医者町を通り、光南町の自宅へ帰りました。帰る途中は、すでにあちこちが燃えており、殆ど人影はありませんでした。…やっての思いで家に着くと、妻のほかに、近所の人が二、三人いました。その頃になると、焼夷弾攻撃は、ますますか烈を極め、前の畑のいもづるさえ、燃えていきました。
とにかく、身のおきどころのないほど焼夷弾が落ち、おるにおられず、逃げるに逃げられずという状態でした。どうしようかと迷っているとき、焼夷弾を入れる筒が、妻の胸に落ち、妻が、私の目前で倒れたのです。勿論、即死でした。…ちょうど隣に、近所の伊藤武さんがいたので、相談すると「そこのドブへ入ろう」というので、すぐさま、ドブの中に飛び込みました。防空頭巾をかぶり、荷物を背負ってじいっとしていました。…私のすぐ近くに、焼夷弾の束になったのが落ちてきました。そのため私は、焼夷弾の爆風で「あっ」という間に、一間ぐらいうちあげられ、はねとばされて、みぞへ落ちました。瞬間、私は、もう駄目だと思いました。…腰の骨が折れていたのです…体が燃えつくされるのではという熱さに苦しめられ、また、ときどき鳴る不発音の爆発におびえながら、とうとうドブの中で、まさに、阿鼻地獄そのものの一夜をあかしたのです。
※著者注
阿鼻地獄(あびじごく)…八大地獄の一つで、死者が絶えず苦しみを受ける地獄のこと。無間地獄ともいう。