寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

JR福山駅前から入江跡を辿る(その10)

2011年10月07日 | 郷土史
広島県福山市船町2‐1のベビー子供服専門店「メロディ・ハウス」前に木綿橋(もめんばし)」跡を示す黒いモニュメントがある。私が幼い頃はまだこの界隈に活気があった。

 南の新橋は、水野家二代の勝重の時に架橋されたもの(「寛永十八年(一六四一)七月完成」…小場家文書)で、ここに木綿の市が立っていたことから「木綿橋」と呼び、昭和十三年(一九三八)までは存在していた。かたわらに高札があって、刑に服した晒者を行なった跡ともいい、木綿の丈尺を改める役人が南のたもとに住んでいて、橋の上で木綿市が立っていたといわれている。

『新版 福山城 / 福山市文化財協会(2006年9月30日発行)』

『水野家時代福山城下明細地図(昭和五十七年四月発行 部数限定)』の包み紙

地元民以外で私の話を理解するのは困難だと思うので『水野家時代福山城下明細地図(昭和五十七年四月発行 部数限定)』をもとにして補足説明を行っておく。

『水野家時代福山城下明細地図』より船町周辺を拡大した


木綿橋北詰の少し上に牢屋(獄舎)が確認できるが、現在の位置では映画館辺りになる。そして天下橋(本橋)と木綿橋(新橋)のほぼ中間地点(北浜)に赤く塗られた領域があるのが川口(舟入)番所である。城下町への人や物資の出入の管理統制に当った(『福山市史 近世編』)という。番所は後年、更に東へ移転している。

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JR福山駅前から入江跡を辿る(その9)

2011年10月07日 | 郷土史
きたはま通りと本通が交わる地点の近くに木綿橋は架かっていた。戦前の地図を見ると橋の北詰に交番があり巡査が遊里へ出入りする者達を監視していたことがわかる。橋の南詰から東が新町遊廓であるが、これも空襲で丸焼けとなり現在ポツポツと残っているのは赤線時代の遺構である。

臓物煮込み屋で精をつけた男たちは地獄の一丁目と呼ばれた新町遊廓入口の最上丸(屋号)でタバコを買い求めて(今も自販機がある)登楼したという。ちなみに関東風の鰻を食わせる店の近くに遊廓・順風楼があった。

かつて地獄の一丁目と呼ばれた新町遊廓入口付近

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芋づるの佃煮

2011年10月07日 | 食材
現代人はさつま芋のつるを捨ててしまうが、敗戦を経験した年寄りはよく炊いて食べていた。その影響か我が家でも芋づるの佃煮を作ることがある。

芋づるを茹でて食べやすい大きさに切り、出汁・砂糖・醤油・酒を合わせた調味液で煮詰めていく。落し蓋を使うと煮汁は少なくて済むし調理時間も短縮できる。山蕗の佃煮よりは柔らかいが、箸休めになる。卵とじにしてご飯の上にのせて食べても美味しかろう。

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