M旅館とお好み焼き店(名無し)の間の道を南に進むとすぐに港である。私はその道中で吉浦遊廓の元妓楼と思しき建物を発見した。

2階外壁の上部に特殊なレリーフがある。亀か、それともメドゥーサを模したものなのか、よく分からないが、中々趣きがあって面白い。

呉市吉浦遊廓は広島県呉市吉浦町字西新地に在つて、山陽呉線吉浦駅で下車すれば南へ約一丁の処である。市電及び乗合自動車の便もあるが乗る程の事は無い。呉市は軍港で鎮守府を置かれる迄は眇たる一小村であつたが、今では隆々として発展し、人口は正に二十万に近着(ママ)いて岡山市を越え(ママ)、近い将来には広島をも凌駕せんとする程の勢である。港の前面に横はつて居る江田島には海軍兵学校があり、江田島の西には能美島、厳島、倉橋島、大島等があつて、瀬戸内海勝地の一に数へられて居る。…現在貸座敷が拾参軒あつて娼妓は百十人居る。店は写真制で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通花制で廻しは取らない費用は御定りが一泊、甲六円、乙五円五十銭、外に一時間遊びは二円位で、何れも台の物は別勘定である。娼妓は県下の女が少なくて、九分通り迄は九州の女である。此処には特殊の風習があつて、毎年四月三日をば「お節句」と云つて、一家全部打揃つて野や山に出懸け、飲めや歌へやの大散財を行ふ処である。娼楼には新竹楼、都楼、大黒楼支店、明日楼、吟松楼、東楼支店、金盛楼、第三明月楼、松本楼、明月楼、大米楼、金盛楼(ママ)、松新楼等である。
『全国遊廓案内』
一つ収穫を得た私は防波堤に駆け上がり大欠伸をした。青い海がキラキラと輝き眩しい位である。時間に余裕があれば釣り糸を垂れたい気分だった。


2階外壁の上部に特殊なレリーフがある。亀か、それともメドゥーサを模したものなのか、よく分からないが、中々趣きがあって面白い。

呉市吉浦遊廓は広島県呉市吉浦町字西新地に在つて、山陽呉線吉浦駅で下車すれば南へ約一丁の処である。市電及び乗合自動車の便もあるが乗る程の事は無い。呉市は軍港で鎮守府を置かれる迄は眇たる一小村であつたが、今では隆々として発展し、人口は正に二十万に近着(ママ)いて岡山市を越え(ママ)、近い将来には広島をも凌駕せんとする程の勢である。港の前面に横はつて居る江田島には海軍兵学校があり、江田島の西には能美島、厳島、倉橋島、大島等があつて、瀬戸内海勝地の一に数へられて居る。…現在貸座敷が拾参軒あつて娼妓は百十人居る。店は写真制で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通花制で廻しは取らない費用は御定りが一泊、甲六円、乙五円五十銭、外に一時間遊びは二円位で、何れも台の物は別勘定である。娼妓は県下の女が少なくて、九分通り迄は九州の女である。此処には特殊の風習があつて、毎年四月三日をば「お節句」と云つて、一家全部打揃つて野や山に出懸け、飲めや歌へやの大散財を行ふ処である。娼楼には新竹楼、都楼、大黒楼支店、明日楼、吟松楼、東楼支店、金盛楼、第三明月楼、松本楼、明月楼、大米楼、金盛楼(ママ)、松新楼等である。
『全国遊廓案内』
一つ収穫を得た私は防波堤に駆け上がり大欠伸をした。青い海がキラキラと輝き眩しい位である。時間に余裕があれば釣り糸を垂れたい気分だった。


通りを更に東へ進むと吉浦第一公園に至る。吉浦新町に入る前に商店街より少し離れた町で私はもう1人から聞き取りを行っていた。65歳の男性による遊廓街の思い出話はすこぶる興味深いものであった。

「吉浦の遊廓はM旅館より西にあったよ。今の公園の向かいに大きな妓楼が建っとったな、3階建て、いや4階建てだったかもしれん。ダンスホールを併設しておって、よう目立っとったわ」

私は滑り台の傍に立ち跡地(住宅と住宅の間は空き地になっていた)をぼんやりと眺めて想像を膨らませた。
「西遊廓の貸座敷にダンス・ホールができたのは、昭和四、五年か、あるいは、七、八年ごろのことである。上等筋や中筋の家では、われもわれもと家の一部を改装し、ダンス・ホールをこしらえた。これは東京、大阪での流行が、広島にもひたひたと押し寄せてきたからである。…これらのダンス・ホールも…昭和十七、八年ごろには、だんだんなくなっていった。当局からのお達しで、これらのホールは昔の日本座敷に復元された。(続々がんす横丁 / 薄田太郎)」との記述を参考にすると呉でも同様のことが起こったのかもしれない。
ちなみに広島市の西遊廓が原爆で完全に消滅したのに対して吉浦遊廓は空襲の被害を受けずに敗戦を迎えている。メインストリートの両端にお好み焼き屋、そしてほぼ中程に食堂がある。私は男性が目印として教えてくれた旅館に向かった。


「吉浦の遊廓はM旅館より西にあったよ。今の公園の向かいに大きな妓楼が建っとったな、3階建て、いや4階建てだったかもしれん。ダンスホールを併設しておって、よう目立っとったわ」

私は滑り台の傍に立ち跡地(住宅と住宅の間は空き地になっていた)をぼんやりと眺めて想像を膨らませた。
「西遊廓の貸座敷にダンス・ホールができたのは、昭和四、五年か、あるいは、七、八年ごろのことである。上等筋や中筋の家では、われもわれもと家の一部を改装し、ダンス・ホールをこしらえた。これは東京、大阪での流行が、広島にもひたひたと押し寄せてきたからである。…これらのダンス・ホールも…昭和十七、八年ごろには、だんだんなくなっていった。当局からのお達しで、これらのホールは昔の日本座敷に復元された。(続々がんす横丁 / 薄田太郎)」との記述を参考にすると呉でも同様のことが起こったのかもしれない。
ちなみに広島市の西遊廓が原爆で完全に消滅したのに対して吉浦遊廓は空襲の被害を受けずに敗戦を迎えている。メインストリートの両端にお好み焼き屋、そしてほぼ中程に食堂がある。私は男性が目印として教えてくれた旅館に向かった。

