御船町1丁目2の恵比須神社前の細い路地を西へ進むとシネフクが見える。路地の左手(南側:同町1丁目9)が本通りパーキングだが、かつては名劇(成人映画を上映)があった場所である。
中国新聞 昭和40年8月4日(水曜日)
変わる町界町名 福山市⑳ 青果市栄える御船町
いまの御船町のほぼ全域に、隣接する町の少しずつを加えて一、二丁目が並んでいる。新町界は北は東町一丁目と寺町に接し、西は笠岡町、東は入船町、そして南は市道北浜線から福山署新町派出所を経て国道二号線沿いのアサヒタクシービルの東一帯。一丁目は五万五千平方㍍二百四十一世帯。二丁目は四万四千平方㍍、百三十世帯。
かつての福山城外堀に通じる入り江の北側にあり、藩政時代には、一、二丁目の中央部に藩船専用の「御船入り」といわれる大きな船だまりがあった。もともと武家町の東町に含まれていたが、大正二年の大字名改称で御船町となった。隣の入船町といい、いずれも御船入りを中心とする昔の船のにぎわいにちなんでいる。
町界変更までは、寺町の浄願寺一帯と明治、大正時代、花やかに弦歌のさざめいた新町の一部を加えているのが特徴。現在の御船町は福山青果市場を中心に数多くの食料関係の問屋や大きな海産物加工工場があり、発展する福山市民の胃袋をささえる大きな柱になっている。
御船入りというのは、入れ江に接して、入り口が約十八㍍、奥行き約百三十㍍、幅約七十㍍という大きな規模で、今の寺町にある浄願寺、一心寺の境内にほど近いところまで伸びていたという。入り口の左側には御船奉行の広い屋敷があり、右には御船蔵や水主(かこ)屋敷が連なっていた。

現在のシネフクは当時大黒座・スカラ座(後にミラノ座が出来た)と呼ばれており、私はここで映画を観ることが多かった。映画館周辺は時代の波と共に様変わりしナンタラ追放の大看板を掲げた(笑)御船町の交番(旧新町派出所)へと続く道路沿いには高層マンションが建設された。
中国新聞 昭和40年8月3日(火曜日)
変わる町界町名 福山市⑲ 今町・笠岡町 にぎわう夜店
この笠岡町には藩政時代の獄屋があった。つまり刑務所である。場所は現在の同町、大黒座近くの船町寄りだった。その昔、木綿橋のたもとで罪人をさらしものにしたというのは、この橋が人通りが多くて演出効果が高かったこともだが、獄屋に近くて便利な点もあったのだろう。先にあげた大黒座は市内最古の劇場である。いまは映画館だが、明治二十五年に創設され、当時は千二百人を収容する大劇場。芝居や浪曲などの興業で市民の唯一の娯楽機関だったという。

昔の物書きには骨のある男がいた。それに比べ今は、好き嫌いでしか感想文を綴ることのできない輩が目立つ。これがゆとり教育の結果だろう(笑)。先人の残した価値ある文章を次の世代に伝えていくのが本来の郷土史研究家の仕事である。

中国新聞 昭和40年8月4日(水曜日)
変わる町界町名 福山市⑳ 青果市栄える御船町
いまの御船町のほぼ全域に、隣接する町の少しずつを加えて一、二丁目が並んでいる。新町界は北は東町一丁目と寺町に接し、西は笠岡町、東は入船町、そして南は市道北浜線から福山署新町派出所を経て国道二号線沿いのアサヒタクシービルの東一帯。一丁目は五万五千平方㍍二百四十一世帯。二丁目は四万四千平方㍍、百三十世帯。
かつての福山城外堀に通じる入り江の北側にあり、藩政時代には、一、二丁目の中央部に藩船専用の「御船入り」といわれる大きな船だまりがあった。もともと武家町の東町に含まれていたが、大正二年の大字名改称で御船町となった。隣の入船町といい、いずれも御船入りを中心とする昔の船のにぎわいにちなんでいる。
町界変更までは、寺町の浄願寺一帯と明治、大正時代、花やかに弦歌のさざめいた新町の一部を加えているのが特徴。現在の御船町は福山青果市場を中心に数多くの食料関係の問屋や大きな海産物加工工場があり、発展する福山市民の胃袋をささえる大きな柱になっている。
御船入りというのは、入れ江に接して、入り口が約十八㍍、奥行き約百三十㍍、幅約七十㍍という大きな規模で、今の寺町にある浄願寺、一心寺の境内にほど近いところまで伸びていたという。入り口の左側には御船奉行の広い屋敷があり、右には御船蔵や水主(かこ)屋敷が連なっていた。

現在のシネフクは当時大黒座・スカラ座(後にミラノ座が出来た)と呼ばれており、私はここで映画を観ることが多かった。映画館周辺は時代の波と共に様変わりしナンタラ追放の大看板を掲げた(笑)御船町の交番(旧新町派出所)へと続く道路沿いには高層マンションが建設された。
中国新聞 昭和40年8月3日(火曜日)
変わる町界町名 福山市⑲ 今町・笠岡町 にぎわう夜店
この笠岡町には藩政時代の獄屋があった。つまり刑務所である。場所は現在の同町、大黒座近くの船町寄りだった。その昔、木綿橋のたもとで罪人をさらしものにしたというのは、この橋が人通りが多くて演出効果が高かったこともだが、獄屋に近くて便利な点もあったのだろう。先にあげた大黒座は市内最古の劇場である。いまは映画館だが、明治二十五年に創設され、当時は千二百人を収容する大劇場。芝居や浪曲などの興業で市民の唯一の娯楽機関だったという。

昔の物書きには骨のある男がいた。それに比べ今は、好き嫌いでしか感想文を綴ることのできない輩が目立つ。これがゆとり教育の結果だろう(笑)。先人の残した価値ある文章を次の世代に伝えていくのが本来の郷土史研究家の仕事である。

