澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

ホイアン(2)~リゾート地として

2007年07月13日 13時09分42秒 | 歴史
ホイアンからダナンに向かう道筋には、リゾート・ホテルやゴルフ場の建設が始まっている。これらは、とても日本人がターゲットとは思われず、多分華僑や中国人向けなのだろう。
ホイアン新市街からは、旧市街やビーチ・リゾートにタクシーで行くことが出来る。安全運転だし、料金の心配もない。また、ホテルで自転車を借りて、2~5kmを走るのも楽しそうだ。他の都市のような喧噪はないので、交通事故等の心配も少ないと思われる。

私たちが泊まった「パシフィック・ホテル」には、ロビーに5台のパソコンが備えられていた。インターネットを使えたのが2台だった。その2台も、メールを送ることは出来なかった。こういったサービスにはイマイチの感がある。

ベトナムの交通事情については既に述べたが、ホイアンへのアクセスは極めて悪い。遠く離れたハノイかホーチミンにまず行き、そこで国内便に乗り換えてフエへ、それからバスかタクシーで行かなければならない。要するに、中部ベトナムは、まだ外国に向かって開かれていないのです。開発から取り残されているが故に、地域の特性、個性が色濃く残っている。それが外国人旅行者には魅力的に映るのでしょうか。

10年後ホイアンに行ったら、失望するかも…。もういちど、なるべく早い日に、行ってみたいところです。



ホイアン(1)~熱帯の哀愁

2007年07月13日 11時59分43秒 | 歴史
写真は、ホイアンの旧市街にある「来遠橋」。通称「日本橋」とも呼ばれ、橋の中には「ホイアン」と日本語で書かれた提灯もかかっている。
NHK・TVの「世界ふれあい街歩き」(2007.5.8再放送)で、このホイアンの街を見た。不思議な魅力に惹かれ、どうしても行ってみたいと思った。今回の旅行の目的は、このホイアンなのだ。

徳川幕府が鎖国政策を採る以前、多くの日本人が交易のためホイアンを訪れ、ここに住んでいた。ホイアン名物の「カオラウ」(フォーより腰の強い麺を汁なしで食べる)は、そのルーツが伊勢うどん(これも汁なしうどん)だと聞くと、親近感はさらに強まった。
注意すべきは、彼我の関係は相互互恵的な関係だったということ。のちにフランス人がやったような一方的な収奪などはなく、異なる民族が平和に暮らしていた。その証拠に「来遠橋」の中央には祭壇があり、何かトラブルが起きた時には、そこで仲裁を図ったという。

戦禍を免れた古い家屋には、日本式の天井、中国風の手すりなど、独特の様式が見られる。それだけでも一見の価値がある。

雨期といいながら、雨は全く降らなかった。突き刺すような陽光が降り注ぐ中、木陰には人々のいつもの生活がある。
ホイアンの生活をちょっと見て、「人間らしい」「我々が失われたものを思い出させてくれる」などとしたり顔で言うつもりはない。

それよりも、灼熱の日差しの中で感じた哀愁のようなものは何だったのか。よく分からないが、経済発展によって、そういう哀愁も失われていくのだろうか。



フエ~レプリカの街

2007年07月13日 11時18分59秒 | 歴史
ハノイからフエへ国内便で約1時間。
古都フエは、レプリカの街だった。1968年1月、南ベトナム全土をおおった「テト(旧正月)」攻勢で、フエ(当時はフランス語読みで「ユエ」と呼ばれていた)は、民族解放戦線の攻撃を受け、米軍との戦闘で市街戦の地獄となった。主な歴史的建造物は破壊された。
特に「グエン朝王朝」の王宮は、米軍の爆撃によってことごとく破壊された。いま、我々が見ることの出来るのは、そのレプリカ(複製)に過ぎない。

たとえレプリカでも、この王宮は一見の価値がある。北京の故宮を模した壮大な建造物群は、租税負担に苦しんだ当時の民衆の姿を想起させる。列強が東南アジア地域を植民地化するさなか、こんな建造物に力を注いでいた「グエン王朝」の無能さを見るにつけ、明治維新の偉大さを痛感する。
19世紀初頭、欧米に対抗する近代国家を建設できなかったことが、その後のベトナムの悲劇を招く原因となった。明治維新の際、例えば薩摩藩がフランスに援軍を頼み、内戦となっていれば、間違いなく日本は西欧列強の植民地となっていただろう。

王宮の遺跡には、多くの白人観光客が見られた。注意して見ると、その多くがフランス人だった。(上掲の写真)ディエン・ビエンフーで敗れ去っても、「インドシナ」はいつまでも彼らの記憶の土地なのだ。多分、彼らの思考には、フランス人が非人道的な植民地支配をしたという、エモーショナルな反省など全くないのだろう。「グエン王朝」がフランスに援助を頼み、その法的要請に基づいて植民地化を推進し、無知蒙昧な現地人を「文明化」しようとしたのだ、と彼らは主張するに違いない。だから、彼らの振る舞いは堂々としたものだ。西欧の植民地支配は、支配を正当化できるように、数々の法的な言い訳を用意してきた。

「大東亜戦争」の勃発による日本軍のインドシナ進駐は、ベトナム人を大いに勇気づけた。フランスの植民地支配を、同じアジア人である日本人がうち破ったのだ。だが「大東亜共栄圏」という日本の構想は、西欧人のような悪辣な植民地支配ではなく、よくも悪くもエモーショナルなものだった。
それ故に、日本人は、フエの王宮に立っても自らのアイデンティティを確認することができない…。自分たちがここでやったことに確信を持てないのだ。人命など鴻毛に等しいこの地にあって、いったんは欧米人を駆逐したという歴史的事実は重要だ。日本人が果たしてきた役割をもっと率直に肯定すべきだろう。

「平和」「世界市民」「国際協力」など、きれいな言葉で飾られた日本の教育では、ベトナムの現実は理解できない。白人による苛烈な植民地支配は、アジアの伝統社会を崩壊させ、多くの人命を虫けらのように奪った。現地人には、ろくな教育・技術も施さず、愚民化政策を採った。多額の国家予算を割いて「台北帝国大学」「京城帝国大学」を作った日本の「植民地政策」とは、全く別のものだ。日本人は、アジアの関わりにおいてもっと確信を持つべきだろう。
フエの廃墟に立つと、「憲法第9条」の恒久平和主義など、空虚な呪文に思えてくる。この呪文を守ろうと、屁理屈を重ねている社民党などの政治家、左翼の歴史教師などは、いちどここを訪れたほうがいい。

フォン川の上流70kmはラオス。彼方に見える山は、もうラオス領なのだ。ベトナムの地図の「ウエスト」(腰回り)部分にあるこの街は、地政学的に見て数々の災いを受ける宿命にある。地続きの大陸がもたらす過酷な宿命、こういったことに我々は無知で鈍感すぎるのではないか。

さて、フォンザン・ホテルに戻り、夜の町に出た。治安はすこぶる良さそうで、夜11時でも不安を感じない。ホテルの近くの「カフェ」でビールを注文。すると、バナナの木に囲まれ、夜空の見える中庭に案内してくれた。さらに、蚊取り線香を炊いてくれ、ナッツやフルーツを出してくれた。客は私たち二人だけ。のんびりとした南国の気分を味わった。フルーツのお代わりまで出してくれ、デジカメで記念写真まで撮ってくれて、支払いは30,000ドン(約300円)。あまりに安いので、同額のチップを出そうとしたが、受け取らない。どうしてもと受け取ってもらい、店を出た。
親友ユージ君は、もっと別の店に行きたそうだったが、私には十分満足のいく「南国の夜」だった。