作家・五味康祐は、並はずれたオーディオ・マニアとしても有名だったが、本人亡き後、あの自慢のオーディオ・セットがどうなったか、今朝の「産経新聞」で知ることができた。
もう45年前のタンノイ・オートグラフは、練馬区役所の会議室に保存されているという。家族が亡くなり、練馬区に「生原稿、書簡、ゲラから刀剣類までを含めて1万6千点以上」が寄贈されたのだ。
五味康祐のオーディオ装置は、昔、雑誌で見たことがある。自宅の一室にホーン型の巨大なスピーカーを埋め込んで悦に入っていたようだが、音量はともかくとして、クラシック音楽の繊細な響きは再現できないだろうなと思わせた。
私はとても彼のようにオーディオにカネをかけられないので、どうすれば低予算でいい音が出るかにこだわった。その結果、「真空管アンプ+英国製スピーカー」という似たような組み合わせに到達した。もう20年、その組み合わせで聴いている。
オーディオ・マニアなる言葉が死語となりつつある今、彼の遺品が散逸せずに保存されたことは喜ばしい。区役所もたまにはいいことをするではないか。
(アンプがネコの座布団代わり?)
湯浅博 剣豪のタンノイを聴いた 2010.2.23 07:34 【産経新聞】
不思議な空間だった。練馬区役所4階の会議室に、タンノイ製の巨大スピーカーが2つ、デンと構えている。人の高さもあるだろうか。幅は1メートルを超える。その真ん中で、真空管アンプがぼうっとかすかな赤い光を放ち始めた。
オーディオファンでもある作家の五味康祐が、亡くなるまで慈しんできた名器たちである。
静かに針がLPレコードに乗せられた。深く緩やかに、ベートーベンの交響曲3番の荘厳な響きが目の前に迫ってきた。かすれた針の音をモノともせずに、重低音が床をふるわせる。かつて、五味はその瞬間に、オーケストラのメンバーが壁一面に浮かび上がってきたことを感じたそうだ。
「まだスピーカーのご機嫌がよくありませんね」
練馬区文化振興協会の学芸員、山城千恵子さんがアンプをなでるようにつぶやいた。この数年、五味が愛したオーディオ機器の面倒をみてきた。
五味の遺品は、平成19年に練馬区大泉学園町に住んだ一人娘が亡くなって、区がそっくり引き受けた。生原稿、書簡、ゲラから刀剣類までを含めて1万6千点以上ある。レコード盤はクラシックばかりが800枚。英国製のタンノイ・オートグラフは、昭和39年に五味が、日本人として最初に買い入れたものだ。
山城さんはそれら遺品の整理、分析、保存を担当することになった。特に、スピーカーは五味流にいうと「沈黙したがっている」から、こまめに鳴らさなければよい音を出してくれない。
山城さんは週1回、会議が終わる午後5時過ぎから2時間かけて名器をよみがえらせる。名刀の「左近大夫師光」など二振りは、砥粉(とのこ)を打ち、丁子油を塗って手入れをする。
山城さんの五味康祐論を聞いているうちに、剣豪作家で手相、麻雀の達人というイメージが突き崩されていく。
五味は大阪の大興行主の家に生まれた。小さなころから音には敏感で、「あの義太夫は三味線がいいね」など生意気を言った。浪漫派の保田与重郎に傾倒して生涯の師と仰いだ。戦地から帰国すると実家は焼失し、東京で文学青年としてガード下の生活を続けた。
通りかかった神保町のレコード店で、子供のころに聞いた音楽を耳にした。店先で涙を流す青年に店主が声をかけた。これをきっかけに出版社幹部に紹介され、徹夜で書いた小説「喪神」が芥川賞を受賞してしまう。
あの店先で聞いたのが、消え入るようなラヴェルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」だった。芥川賞作品はドビュッシーの「西風の見たもの」からヒントを得て書いたというから、すべてが音楽に通じていた。
五味が剣豪ものを書くまでには、純文学への志と編集者が求める現実との乖離(かいり)に悩んだようだ。それでも、芥川賞の賞金でオーディオを買い、一時は麻雀でレコードを買うことをもくろんだ。
「自分のいやらしいところを随分知っている。それが音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に座り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた」(『オーディオ巡礼』)
五味が週刊誌の求めに応じて剣豪小説を書いたのも保田の薦めだ。「柳生武芸帳」「二人の武蔵」は代表作になった。五味には重厚な漢文調の小説と音楽、手相、麻雀と幾つもの顔がある。しかし、昭和40年に、自身のクルマで2人をひき殺してしまった贖罪(しょくざい)からは終生逃れることはできなかった。
あのタンノイの前で、バッハの「マタイ受難曲」を聴きながら涙を流す五味の姿が浮かんでくる。今年は五味の没後30年。9月5日から練馬区立石神井公園ふるさと文化館で、五味の遺品群に会える。(ゆあさ ひろし)