ワケあって「ザビエルが見た日本」(ピーター・ミルワード著 講談社現代文庫)を読む。ちょっと感想を記してみた。
イエズス会と「海の帝国」ポルトガル
本著では、主にザビエルの宗教的動機が語られている。だが、キリスト教布教に当たっては、世俗の側の協力が不可欠であったことは言うまでもない。1549年4月ザビエルは、ゴアからマラッカに向かった。その前年、明朝は「海禁」策を徹底するため、東アジア貿易の一大拠点だったリャンポー(双嶼港)を陥落させている。これでポルトガル商人は多くの利権を失った。そこで「膨大な銀産出国日本との貿易関係をどう立て直すのか、マラッカのポルトガル人商人の緊急課題」となり、「マラッカ高官にとっても、ザビエルの企ては渡りに船だった」(宮崎正勝「ザビエルの海p.206-7)という状況が生まれた。ザビエルの日本布教の背景には、このような「形而下学」的事情もあったのである。
また、ザビエルが属するイエズス会は「上意下達」、すなわち上からの命令を絶対とする軍隊型組織である。異教徒の地にキリスト教を布教するという「聖なる使命」を遂行するために、イエズス会は西洋科学や医療知識を身につけた人材を派遣し、現地の支配層を取り込み、キリスト教布教の許可を得ようと務めた。ザビエルは日本において、キリスト教教理のほかに、「地球は丸い」などという基本的な科学知識をもたらした。「私たちは優れた知識を持っていると思われたために、彼ら(=日本人)の心に教えの種を蒔く道を開くことができました」(p.89)と彼は書簡に記している。本書で引用されたザビエルの書簡を見る限り、ザビエルは日本における布教をかなり有望、楽観視している。これは、担当者が本部に提出した報告書と同じようなものなので、ザビエルが自己の功績を強調するために、日本を過大評価している傾向は否めない。
日本にキリスト教は根付いたのか
ザビエルは、鹿児島、大分、山口など各地でキリスト教の布教に務めた。「ミヤコ」(京都)にも足を運ぶが、戦乱でミヤコは荒れ果て、布教の願いは叶わなかった。彼がこの戦乱の時代に日本に来たことは、ある意味で幸運であった。明朝や清朝のような巨大な中央集権国家では、キリスト教布教は「皇帝」の権威に抵触するとして禁止された。しかし、当時の日本は群雄割拠の時代で、各地の領主が布教を「許可」する裁量の余地があった。ミヤコでの布教を断念したザビエルは、「山口に戻り、インド総督とゴアの司教から友誼の印に送られた手紙と贈り物を進呈」し、その代わりに「この国の人々に神のおきてを公表する許可を与えてください」(p.79)と願い入れた。願いは許可され、仏教の僧侶も貴族も平民も大勢やってきて、キリスト教の信仰を受け入れることになった。二ヶ月で500人が入信したと記録されている。
ザビエルの書簡によると、日本人は創造主の概念を持たなかったので、万物の創造主の話を聴き驚愕した。悪魔の概念については「日本人は人間が救いのない地獄に投げ込まれるという考えを受け入れることがなかなかできませんでした」と記している。とりわけ、日本人がキリスト教の教義に違和感を覚えたのは、信仰によって神に救われるのは信者個人に過ぎず、先祖や子孫は無関係だという点であった。家族の絆を重視する儒教道徳が身に付いた日本人にとっては、キリスト教受容をためらう最大の関門はそこにあった。
著者のミルワード神父は、ザビエルの書簡を分析して、ザビエルには人種的な優越感があったと指摘する。「聖なる使命」がもたらした優越感は、ときに布教対象となった集団、社会をも破壊する。ザビエルのほぼ同時代には、スペイン人のコルテスがカトリック神父とともに、アステカ帝国を武力で滅亡させた。このような優越感は、1960年代に開かれた「第二バチカン公会議」でようやく克服されたと著者は言う。
この公会議以前には、カトリック信者は金曜日に肉を食べることが禁じられていた。だが、日本社会で暮らすなかで信者だけがそれを貫くのは難しい。教義はそれぞれの社会に応じて柔軟に適用するというのが、この公会議の結論だったが、そんな平凡な結論が出るまで何世紀を要したというのだろうか。
周知の通り、ザビエルが日本で布教活動をしてからほぼ40年後、豊臣秀吉はキリシタン禁制を決めた。それ以後、明治維新に至るまで、キリスト教の信仰・布教は禁止され、その思想は異端視された。
「西洋の衝撃」(Western Impact)が、銃と十字架を携えて非西欧世界にやってきたことを考えると、日本においてザビエルの願いが実現しなかったことは、むしろ僥倖とすべきなのかも知れない。