6月27日、レイモン・ルフェーブルが死去した。
フランク・プウルセル、ポール・モーリアが相次いでなくなり、フレンチ・ポップスと呼ばれたマエストロはカラベリを残すのみとなった。(今や「映画音楽」の巨匠となった、ミシェル・ルグランは健在だが…。)
「ウィキペディア」によると、彼の来歴は次のとおり。
レイモン・ルフェーブル(Raymond Lefèvre、1929年11月20日 - 2008年6月27日)はフランスの編曲家、指揮者、作曲家、ピアニスト、フルート奏者。イージーリスニング界の第一人者として有名。
フランスのカレーに生まれる。パリ音楽院を卒業。パリ音楽院の学生時代に、ジャズに興味を持ち、1956年9月、女性歌手ダリダのデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を自ら受け持ったことが、彼のグランド・オーケストラの始まりである。1968年に「ばら色の心」「シバの女王」が大ヒットし、この2曲が全米ヒットチャートにもチャートインしたことにより、その名が知れ渡る様になる。
日本公演は、1972年の初来日から数多くある。自ら引退するまで(ファンのためにオーケストラによる公演は続いている)約700曲を録音したと言われている。契約レコード会社はフランスのバークレーで、日本ではキングレコードからロンドンレコード、ポリドールと発売権が移ったが、1989年にビクターエンタテインメントが日本でのアーティスト独占発売契約を行い、現在に至っている。
これにより、リチャード・クレイダーマンと彼の楽団による共演のアルバム「郷愁の詩」が発売された(1995年4月21日)。 2008年6月27日、パリ郊外で死去。享年80(満78歳没)。7月1日現在、死因は伝わっていないが、長く闘病生活を送っていたという。
「シバの女王」を最初聴いたとき、ストリングスの重厚なアレンジが新鮮だった。チェロの低音をエコー・エフェクトにかけて強調し、ロックのビートをかぶせるところなど、それまでの「ムード音楽」のオーケストラにはない試みだった。
4-5年前、ルフェーブルの子息が主管する「レイモン・ルフェーブル楽団」の演奏会を聴きに行った。会場は、東京のサントリー・ホール。
この会場は、「クラシックの殿堂」のようなもの。ナマの音(アコースティク・サウンド)を聴くためのホールだ。
そこでこの楽団は、PA(パブリック・アドレス 拡声装置)をガンガン使って演奏した。幕間で私は、後部座席にいたPA担当者に、何故ナマの音で演奏しないのかと尋ねてみた。「……」「…こうしてほしいと言われているもので…」といった、要領の得ない答えが返ってきた。
このコンサートは、決して忘れられない。何故かというと、サントリー・ホールまで行って、カラオケを聴いてきたような気分になったからだ。
今晩、久しぶりにルフェーブルのCDを聴いてみた。「哀しみの果てに」「この胸のときめきを」など、これはいいなあと思った。