1962年頃、日本でもヒットした「さすらいのギター」。日本語歌詞がつけられて小山ルミが歌った。インストルメンタルでは、フィンランドのザ・サウンズというグループが最初にこの曲を採り上げた。この曲の原題(英語)が「Manchurian Beat」(満洲のビート)だと知ったのは、ずっと後なってから。
「満洲」という言葉がひっかかったので、ネットを検索してみたら、この曲の原曲は、帝政ロシア時代の満州駐在のロシア軍楽隊長によって作曲されたことを知った。原曲のタイトルは「満洲の丘に立ちて」。その由来は、「二木紘三のうた物語」というブログで、次のように説明されている。
満州の丘に立ちて
日本語詞:笹谷榮一郎
1 静かに霧は流れ 2 静かに霧は流れ |
《蛇足》 日露戦争終結後の1906年、ロシア軍の軍楽隊長だったイリヤ・アレクセーイヴィチ・シャトロフによって作曲されました。
日露戦争が始まると、満州各地で激戦が展開されましたが、わけても奉天大会戦は両軍合わせて16万人の死傷者(日本側7万、ロシア側9万)を出すという史上まれに見る大激戦でした。
シャトロフが所属していた第214モクシャ歩兵連隊も、この戦いで多くの犠牲者を出しました。その死を悼んで作ったのがこの曲です。当初のタイトルは『満州の丘のモクシャ連隊』で、歌詞なしの吹奏楽でした。
ほぼ同じ頃(明治38年、1905)、日本では『戦友』が作られ、多くの人に愛唱されました。「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の……」で始まり、14番まで続く長い歌です。一般には軍歌とされていますが、私には、表向きのフレーズの裏に強い非戦の思いが隠されているように思えてなりません。
それはさておき、『満州の丘のモクシャ連隊』は、やがてロシア全土で演奏されるようになり、それとともに歌詞を求める声が高まりました。それに応じて、何人かが歌詞をつけましたが、いずれも日本には伝わっていません。
1917年、帝政が崩壊し、ソヴィエト(労農)政府が樹立されました。時あたかも第一次大戦の真っ最中で、共産主義勢力の拡大を恐れる連合国は、革命に干渉するため、日本軍を主力としてシベリアに出兵します。
東シベリアに領土的野心を抱く日本は、米・英・仏軍が撤退したあとも、白衛軍(帝政派などの反革命軍)を支援して、赤衞軍(ソヴィエト軍、のち赤軍)と戦い続けます。
日本軍の干渉戦争は1918年から8年間に及びましたが、膨大な戦費を費やしたあげく、列強の不信を買っただけで終わりました。
1922年にはソ連、すなわちソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。4年後の1926年、アレクセイ・イワノーヴィチ・マシストフがこの干渉戦争で倒れた兵士を悼む歌詞を発表、再びロシア人たちに愛唱されるようになりました。 のちにベンチャーズがこの曲を“MANCHURIAN BEAT”(邦訳題名『さすらいのギター』)として演奏、世界的なヒットとなりました。往時の歌声喫茶体験がない人には、この曲をベンチャーズの演奏で記憶している人が多いかもしれません。(「二木紘三のうた物語」より引用)
戦前の満洲を知る人も数少なくなって、満洲といえば、「日本が悪いことをした場所」というくらいの認識しか持たない人が多数派になった。「中国はひとつ」だと主張する中共(=中国共産党)は、満洲が征服王朝であった清朝の故郷であったことから、この言葉を忌み嫌い、 「中国東北部」と言い換えさせた。今でも、親中派の学者・文化人やマスメディアでは、満洲という地名を呼ぶときは、カッコをつけて「満州」と呼ぶことになっている。
だが、歴史を振り返れば、満洲は近代日本にとって、最も深く関わった「外地」であったのだが、「敗戦」の傷痕によって我々は、今なおこの地を「直視」することさえできない。
ありふれた流行歌の中にも、いろいろ考えさせられることが多い。映画「カサブランカ」の酒場の場面で、「霧のカレリア」(Karelia)のメロディが流れるのだが、年代的には映画の方がずっと古いので、映画の中のメロディが「霧のカレリア」の原曲となる。このあたりも、興味深いのだが、未だ分からない。