都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
いまをさかのぼること南北朝時代、「南朝の後村上天皇が狸汁(たぬきじる)を賞味した」という記述が『太平記』に残されているそうです。
ごむらかみ‐てんのう【後村上天皇】
[1328~1368]第97代天皇。在位、1339~1368。後醍醐天皇の皇子。名は義良(のりなが)。吉野で即位後、足利勢の攻撃に伴って転々と行宮を移動し、摂津住吉で没。
たいへいき【太平記】
南北朝時代の軍記物語。40巻。小島法師作と伝えられるが未詳。応安年間(1368~1375)の成立とされる。鎌倉末期から南北朝中期までの約50年間の争乱を、華麗な和漢混交文で描く
大辞泉
具体的な材料や調理法などは定かではありませんが、それ以前より、狩猟や漁労で捕らえた動物の肉や魚などを「汁仕立て」にした料理が数多くあったことは間違いないと推測されます。
その後、江戸時代初期に刊行された『料理物語』には、「狸汁」のほか、「ふくと汁(ふぐ汁)」や「兎汁」などについての記述も見られるそうです。当時の「狸汁」は、大根・ごぼうが入った味噌仕立てのもので、ふくと汁も味噌仕立ての汁物であったようです。
りょうりものがたり【料理物語】
江戸時代の料理書。1643 年(寛永 20)刊。著者未詳。魚・鳥獣・野菜などについて素材別に料理法を記す。包丁流派にこだわらず広く一般の料理をとりあげている。
大辞泉
調理法をみると、やはり「汁物」の域を出ていないようにも思えますが、これらの汁料理が現代の「鍋」の起源と考えられています。
しかし、「鍋」の起源とはいっても、これらの汁料理には、現在の「鍋」との大きな違いがあります。
当時は「ひとつの鍋を皆で囲み、直箸も気にせず食べる」という「鍋」の醍醐味ともいえる行為自体が食事の作法として最低であると禁止されていたようです。「下品きわまりないもの」として蔑まされていたのだそうです。
室町時代にはすでに銘々膳(めいめいぜん)による食事が確立され、囲炉裏や竈(かまど)で作られた料理は汁物に限らず、料理番とか飯炊き女や給仕係などが一人分ずつ小椀によそって配膳されたものを食べるのが一般的だったようです。それは地位や身分に関わらず、上流階級から下々の人々にまで浸透していたそうです。
そのような状況で現代のような食べ方をしたら、周りから白い目で見られること間違いなしです。
ひとつの鍋を皆で囲み、直箸も気にせず食べることは鍋の醍醐味のひとつ。銘々膳ではせっかくの鍋の美味しさも半減してしまう。
とはいっても、最近は直箸を気にする若者も多いそうです。
では現代のスタイルにより近い「鍋」はいつになったら現れたのでしょうか。
それは江戸時代の半ばのことであったといわれます。江戸時代も半ばを過ぎると江戸の人口は100万人を突破し、町民は長屋で暮らすようになりました。
長屋は土間を除いた部分の広さが約四畳半というのが一般的でした。そのような広さに囲炉裏を作るわけにもいかず、もちろん小さな土間に大きな竈を置くわけにもいきません。
そこで重宝されたものが『七輪』だったのです。小型で持ち運び便利な七輪は、狭い部屋の中で暖もとれるし料理もできる、まさに一石二鳥の便利器具だったのです。
長屋に暮らす人々は七輪を囲み、酒を酌み交わしながら、アサリや豆腐を入れた小鍋を食べていた。これは『小鍋立て』と呼ばれ、町民の間で大流行したと言われています。
ひとつの鍋を数人で囲み、自由に食べながら楽しく時間を過ごす。ここにきてようやく現在と同じスタイルの「鍋」が登場しました。
では江戸の人々は、どのような鍋を食べていたのだろう。文献や資料には、「あさり鍋」・「ねぎま鍋(葱、マグロ)」・「どじょう鍋(柳川鍋)」・「いわし鍋」・「湯豆腐・鮟鱇(あんこう)鍋」・「ふくと鍋(ふぐ)」等など、江戸っ子たちらしく、さまざまな種類の鍋を楽しんでいたようです。
ここには「肉」を使った鍋が出てきていません。江戸では肉は食べなかったのでしょうか。もともと古来の日本では『穢、殺生戒(けがれ・せっしょうかい)』といった肉食を忌む風習があり、それが江戸時代になると『肉食=穢れたもの』として忌み嫌われ、禁止されていたのです。
しかし、いつの時代でも知恵者がいるもので「身体を暖め、栄養をつけ、病気を治すため」という理由をつけ『薬喰い(くすりぐい)』と称して、鶏(軍鶏など)はもとよりイノシシやシカ、ウマ、ウサギなどが食べられており、江戸末期になると、『ももんじ屋』と呼ばれる獣店(けものだな)で公然と食べられるようになっていたそうです。
「ももんじ屋」の「ももんじ」とは、子供言葉で妖怪を意味する「モモンジイ」に由来するとも、「百獣」と書いた「モモンジュウ」が訛ったともいわれています。
ちなみに牡丹鍋や桜鍋(けとばし)・紅葉鍋などの名称は、当時の隠語の名残ではないかといわれています。
その後、明治時代になると牛鍋屋が大繁盛! 文明開化とともに、長らく続いた銘々膳や肉食への禁忌も薄らぎ、現在のような鍋のスタイルが定着するようになったそうです。
したっけ。