年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

七福神詣で 三遊亭円朝作 余談

2007年06月03日 | 福神漬
七福神詣で 余談
三遊亭円朝作より
浅田正文は東京市下谷区茅町2—16に住み、明治43年の日本紳士禄によると所得税139円納めている、茅町は現在の池之端一丁目(池之端仲町)
財界物故傑物伝下巻より
浅田正文(わが海運界の功労者)
初め岩崎弥太郎の三菱会社に入り、東京本社の会計役を任され,重用され、日本郵船会社の発足とともにその重役の一員に加わって海運界のために働きました。
 三菱会社で岩崎弥太郎や川田小一郎の背後で経営を助け、信頼を受け、三菱会社の発展を助けた。三菱会社は事業の発展と共に海運を独占したため横暴の態度があるといわれて、これを利用して海運界に参入して数々の会社が競争を挑んできた。
 三菱でこれに応戦したのは川田小一郎で、彼を事務総監とし協力して東京本社の采配を振るっていたのは荘田平五郎(日本で初めて複式簿記を採用)で浅田正文が補佐していた。
明治18年10月1日
明治政府は共倒れを恐れ、日本郵船会社を創立した。浅田は会計支配人となり郵船に参加した。
明治22年4月 理事、明治26年12月専務取締役。日清戦役直前に第一線を退いたが、明治41年まで在職、日本郵船の重役であった期間は満22年7ヶ月であった。この間明治29年10月東武鉄道創業、明治精糖、神戸電気鉄道の創業に参加した。
明治45年4月18日 病没 享年59歳
落語家の三遊亭円朝と交流があったと思われる。また住まいが酒悦と同じ町内で当然郵船には『酒悦の福神漬』が納入されていたと思われる。

富貴楼のお倉は日本郵船発足時に影の功労者と言う説がある。
『横浜富貴楼お倉』鳥居民著

落語家の三遊亭円朝の話から
七福神・日本郵船・上野池之端は底の方でつながっている気がする。

 日本郵船の社内報『ゆうせん』には『明治時代に当社の欧州航路船上で日本人コックが考案したと伝えられています。それを明確に証明する資料は残っていませんが、多くのOBが証言しており、まず間違いないでしょう。』とあるが印度洋の常陸丸遭難事件の記憶の中に『東京池之端・福神漬』に記憶と共に日本の味として郵船社員が覚えていたと思います。

資料は無いが記憶に残る福神漬
コメント
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