アジア歴史史料センターで検索した文献より
三十七、八年戦役残品たる福神漬職員中希望者に売却の旨陸軍糧秣庁申込
明治41年6月26日陸軍糧秣本廠より枢密院御中
三十七、八年戦役残品たる福神漬を左記の方法により売却いたしたく候。貴院職員等においてご希望に候ははその数量を一纏めとし一回に御申込相成りたく候也。左記一貫匁につき金40銭、ただし一缶百二十匁入りにして四銭八厘のわり、一箱は三貫三百六十匁(百二十匁いり二十八缶)入りにて一箱未満の端数は売却せず。現品は別紙の様式による納金証に現金を添え当廠収入官吏に納入の上にあらざれば現品の引渡しを為さず。買受人は現品受領の際しその受領証を差し出すこと。売却期間は7月1日より同月31日迄とし執務期間内に限る。遠隔地における売渡品授受の方法については代理人を選定(例えば運送請負人を代理人と定むる等)
当時は日清・日露戦争と呼ばれていなかった。福神漬は軍の需要が大量にあったが、戦争が終わると注文がこなくなり不況となり、更に不要となった福神漬は安く売却され市場に出回って更に不況となる。しかし、高価だった缶詰の安価な売却は明治の庶民に缶詰食品の普及を促進した面もある。
百二十匁は約450gで二十八缶入りで一箱は14kgとなる。
戦後『死の商人』と悪評がたった大倉喜八郎が『樽』入りの福神漬を献納したのは偶然だったのだろうか、それとも缶詰を避けたのだろうか。
日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。
三十七、八年戦役残品たる福神漬職員中希望者に売却の旨陸軍糧秣庁申込
明治41年6月26日陸軍糧秣本廠より枢密院御中
三十七、八年戦役残品たる福神漬を左記の方法により売却いたしたく候。貴院職員等においてご希望に候ははその数量を一纏めとし一回に御申込相成りたく候也。左記一貫匁につき金40銭、ただし一缶百二十匁入りにして四銭八厘のわり、一箱は三貫三百六十匁(百二十匁いり二十八缶)入りにて一箱未満の端数は売却せず。現品は別紙の様式による納金証に現金を添え当廠収入官吏に納入の上にあらざれば現品の引渡しを為さず。買受人は現品受領の際しその受領証を差し出すこと。売却期間は7月1日より同月31日迄とし執務期間内に限る。遠隔地における売渡品授受の方法については代理人を選定(例えば運送請負人を代理人と定むる等)
当時は日清・日露戦争と呼ばれていなかった。福神漬は軍の需要が大量にあったが、戦争が終わると注文がこなくなり不況となり、更に不要となった福神漬は安く売却され市場に出回って更に不況となる。しかし、高価だった缶詰の安価な売却は明治の庶民に缶詰食品の普及を促進した面もある。
百二十匁は約450gで二十八缶入りで一箱は14kgとなる。
戦後『死の商人』と悪評がたった大倉喜八郎が『樽』入りの福神漬を献納したのは偶然だったのだろうか、それとも缶詰を避けたのだろうか。
日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。