年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

兵食としての福神漬 海軍

2007年06月12日 | 福神漬
兵食としての福神漬 海軍
写真で見る海軍糧食史 藤田昌雄著
日本海軍の始まりといっても良い『咸臨丸』の訪米時には船に搭載した食料の中には醤油7斗5升、みそ5樽、漬物6樽、梅干5壷となっている。
 また下士官、兵の一日平均糧食は脚気対策時期の漬物の量は明治17年230g、明治18年240g、明治19年220g、明治20年120g、明治21年80g、明治22年90gとなっている。海軍カレーは良く知られているが初期はタクワンが付いていたと思われる。
 明治22年になると日本国内の缶詰産業の技術能力の発達により陸軍による缶詰の多用により普及する。海軍に福神漬の缶詰が積込まれたのは陸軍より遅れていたと思われる。海軍の初期の日本製の缶詰食品の不良品が多く、多くは輸入品を使用していた。日本製に切り替わったのは日露戦争であった。この時福神漬が海軍に入ったと思われる。
 明治21年広島市缶詰製造業者逸見勝誠(現サンヨー堂創始者)が海軍の指定缶詰工場として『牛肉缶詰』『野菜缶詰』を製造納入していた。


参考 大正11年7月 サンヨー堂は上野公園で開催された平和記念東京博覧会に出品した「敷島漬」(福神漬)「松茸煮」缶詰が金賞牌を受ける。「敷島漬」は広島市鶴見町木村永進堂製造で大根・茄子・ナタ豆・レンコン・しそのみ・松茸・竹の子・蕗等色々配合して造っていた。
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