敷島漬(福神漬)
大正12年に表彰を受けた、敷島漬のことを知りたくて、サンヨー堂さんにメ-ルして「サンヨー堂85年史」を見させていただきました。それによると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。商標登録してあって避けたのだろうか。
同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。
大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。
大正12年に表彰を受けた、敷島漬のことを知りたくて、サンヨー堂さんにメ-ルして「サンヨー堂85年史」を見させていただきました。それによると「野菜缶詰」から福神漬に向かったようでどうして「敷島漬」と命名したか書いてありませんでした。商標登録してあって避けたのだろうか。
同封してあった缶詰ラベルには目方が書いてあって、中身は340g(13オンス・90.7匁)つまり現在の缶詰規格では4号缶となる。多分この規格が広島の軍隊に納入されていたのだろう。
「85年史」を読むと社業の発展の歴史と「石の缶詰」事件に目がいく。日本缶詰協会の事件の顛末から「大倉喜八郎は冤罪」となるのだがどうして喜八郎の事件になってしまったのだろうか。
「人間大倉喜八郎」 横山貞雄著93頁
翁の一言
日清戦争が終わって間もない頃、ある人が横須賀からの上り列車に乗ると大倉喜八郎も乗っていた。その人は当時すでに世間に伝わっている風説を話し、大倉喜八郎をなじった。
「貴下は実にけしからんやつだ、日本国民ならばそんなことは出来ることでもない。貴下は自分のやったことをどう思う。恥ずべきことだと思わんか?」と興奮して詰め寄ったが、けれど大倉は怒りもせず彼の経歴を話した。ますますある人は怒り「私は貴下の経歴など聞きたくも無い。貴下はそういう行いを恥じないのかということを聞いているのだ」大倉の答えは「私はそのことに関して何も申し上げない。言えば弁解となる、言ったとしても貴下の疑いは晴れるものではないのです。ただ、大倉は決してウワサのような国家のためにならぬようなことをする人間ではないと言っておきます。長い目で見てください、今に解ります。大倉は国家を思う人間であると言うことがわかる時が来ます。それまで何も言いません」それでもある人は新橋に着くまで大倉に暴言をしていた。汽車が新橋に着くと大倉はある人に向かって「人間は何でも辛抱が肝腎ですよ」といて別れた。
大倉喜八郎が日清戦争後、樽入り福神漬を献納したのは風説「石の缶詰」を避けたのであろうか。日清戦争後間もなく「死の商人」のウワサが出ていたのだろうか。