年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鳥羽伏見の戦い後、東征軍の大垣長期滞在。

2012年10月14日 | 福神漬
岐阜県史 通史近代上
維新激動期の美濃と飛騨
維新激動期の美濃の政治的重要度が飛騨と違っていた。美濃の地域は名古屋藩が12万石、ついでに大きい藩が大垣藩で10万石、中小藩、旗本等の領主支配されていた地域だった。
 鳥羽伏見の戦いで勝利した朝廷政府派は江戸に進軍するに当たり、美濃の地から軍費を賄う必要性があった。そこでいち早く美濃へ進軍した赤報隊の『年貢半減』布告は朝廷の方針と相反する行動となり否定されることになった。
 美濃への朝廷側に付くように名古屋藩徳川義勝は佐幕派家臣を処分し、藩論を統一し、近隣諸藩にも積極的勧誘を行い,勤皇誓書をまとめ、朝廷に提出した。1月20日に京都を出発した東征軍は2月20日まで大垣で体制を整えていた。この大垣での長期滞在で戸田家と東山道鎮撫総督岩倉具定(具視の次男)の関係が出来、後に岩倉具視の次女極子を大垣藩主戸田氏共の婚約者とした。

福島事件被告人花香恭次郎が花香家の親族から『公家の若様』を養子にもらったという言い伝えがあった。公家とは岩倉家を示しているのではないのだろうか。大垣藩の美濃の分家で深坂戸田家がある。幕末の当主戸田氏栄は花香恭次郎の父である。
出典 香取民衆史10 香取歴史家協議会
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