年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

大原幽学記念館で

2012年10月10日 | 福神漬
大原幽学記念館で
もう4年ほど前だった、大原幽学記念館に行った。そこで花香恭次郎のことを調べることが狙いだった。ゆっくり館内を巡って房総の和算とか大原幽学のことの展示を眺めていた。そこには天保水滸伝のこともあったが当時は幽学も浪曲も余り福神漬には関係はないだろうと無視していた。
大原幽学と飯岡助五郎-遊説と遊侠の地域再編 高橋敏著から
飯岡助五郎は今の横須賀の出身で、千葉飯沼で干鰯、魚肥などの仕事で人望を集めていた。彼が東浦賀で干鰯が有力な産業であることを知っていて飯沼に行ったと思われる。木綿の元になる綿栽培には多量の肥料が入り、九十九里の干鰯魚肥は有力な産業であった。さらに和歌山から千葉に渡った漁民によって関西の進んだ漁法が伝わり、漁獲高があがったと言う。天保水滸伝ではライバルとなる笹川繁蔵も同じく和歌山から来た人たちによって、千葉東庄の醸造業が発展し、金銭的に潤い賭場が盛んであった。下級幕臣の組与力と旗本によって細分化されていて支配されていた銚子周辺では治安維持の取締りの力も弱く、飯沼助五郎に治安維持の権限を与えるしかなかった。そこに大原幽学の悲劇がある。農民がまともな生活を送ると賭場に出入りすることが少なくなる。
 九十九里の海岸から離れた房総半島の中ほどに万歳村がある。そこに和算家の花香安精がいた。大原幽学や飯沼助五郎と同時代である。
 万歳村は安中藩の領地で花香家は安中藩への御用金負担したことで士族となったようである。また房総の地は江戸町奉行所の与力領、同心領があり(与力給知)、何らかの付き合いが明治になってもあったと思われる。
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