年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

古賀謹一郎

2012年10月12日 | 築地市場にて

古賀筑後という人がいた。木村芥舟日記に出てきた人だった。慶応3年12月30日日記に差し押さえられていた福沢諭吉のアメリカでの購入図書を解除するため,木村が福沢のために上申書を出す相手だった。 古賀は小伝間町牢獄にいた堀達之助を開放するために努力した人だった。当時小伝間町牢獄では釈放される寸前の堀と処刑される寸前の吉田松陰が居た。彼ら二人は浦賀と下田で同時期を過ごし、又牢獄でも同じ空気を吸っていた。古賀謹一郎は今では殆ど無名の人物である。
さて郡山駅付近にある安積国造神社を訪ねて廊下にあった安積艮斎の経歴を見ていると、ペリーの国書を翻訳したメンバーの中に古賀茶渓という人物がいた。古賀筑後,古賀茶渓,古賀謹一郎は同一人物である。古賀が設立にかかわった幕府の洋学所は今の九段下の昭和館のあたりという。隣には井関家があったはず。また昭和館は大坂町奉行旗本新見家の跡地と重なる気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする