年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

消された同期の桜の4番

2019年05月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期


5月3日の鹿児島県南鹿児島市の知覧で特攻した人たちの慰霊祭があった。式典の最後は(同期の桜)を歌って終わる。私の学生時期はこの歌を歌うことは好まなかったのでうろ覚えだった歌詞を思い出すためユ-チュ-ブで見ていたら、歌わない歌詞が出てきた。

4番: 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 
あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか

5番: 貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう

 戦後、昭和25年頃から、私の父の指示だと思うが毎年夏になると埼玉の実家へ預けられた。この事は父が病死した昭和30年まで続いた。居間に掲げられている飛行機の前に立った叔父の写真を眺めていた。当時の記憶は航空関係で戦死したと言われていた。特攻で死んだことは昭和45年に叔父と父を生んだ母が老衰で死去したとき初めて葬儀の席で詳しく聞いた。

 5歳くらいの子供が埼玉の田舎へ行くと父を生んだ母が満面の笑みを浮かべて、埼玉弁で話していた。記憶が今でも65年経っても昨日のようによみがえる。

 生きて帰ると約束して陸軍特別操縦見習士官1期生の応募したのになぜ帰らなかったのか。私は死んだ叔父の生まれ代わりのように思われていた。それだから父は毎年埼玉の実家に行かせたと思う。

 5月20日に靖国神社に参拝し。青々と茂った桜を眺めて叔父への思いを伝えようか。何故死んだのか。横須賀での叔父と父の最期の面会で何を話したのだろうか。昭和20年2月27日に叔父は茨城の飛行場から内地を転々とし、朝鮮・中国経由で台湾の航空基地へ赴任した。

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