年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

高木俊郎著陸軍特攻隊を読む

2019年05月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

連休中の本で〔陸軍特攻隊・高木俊郎著)を読んでいる。どうやらこの本で菊池寛賞をもらったようだ。叔父が陸軍特攻隊で昭和20年5月に沖縄嘉手納沖にいる米軍艦隊に同僚5名と誘導機1名で特攻した。

 もしこの本で書かれていたことが事実なら父が戦後の法事等で埼玉の田舎で感じていた叔父の犬死感はあったに違いない。犬死感を息子の私に語ることなく昭和30年末に私の父は死去した。叔父は陸軍特別操縦見習士官1期生で志願した入隊した。戦歴を見るとビルマ戦線に参加し、レイテ戦線末期に参戦・その後昭和19年末に日本へ帰り、一式戦闘機を受け取り再訓練し、昭和20年2月27日に茨城を出発し台湾に向かった。飛び立った経路を見ると転々としている。もうこの時期は沖縄上空の制空権が無かったかガソリン等の燃料不足・新型飛行機の製造初期不良の恐れでゆっくり台湾に向かったのだろうか。昔と言っても昭和の40年代までトヨタの車でも新車の1000KMまではあまり高速走行をしないでゆっくりエンジンを慣らして下さいと言われていた記憶がある。何時の間にこのようなことは言われなくなった。

 今の製造と違って戦時の粗製乱造の戦闘機の初期不良・整備技術の不慣れなどで精神力過多の日本陸軍幹部の意識で叔父は特攻で犬死したと戦後の10年で感じていたのだろうか。あまりにも酷い作戦で自己の生命の安全確保で撤退飛行に護衛機を付けていたと言う。レイテの特攻で特攻機に米軍に対して護衛機を惜しみ特攻機が米軍に突入する前に易々と迎撃され、ほぼフィリッピン陸軍航空隊が戦果なく壊滅したようだ。戦場新聞記者だった高木俊郎氏が戦後特攻機記事が作文であったことを書いている。捏造した記事に陸軍幹部は自己満足し、やたら若い命を消耗し、日本を抹消する危機があった。昭和天皇の判断は無ければどの様に悲惨が拡大していたかは沖縄戦線の悲劇から解る。このような意味付けで叔父の沖縄特攻を意義付けないと特攻遺族として耐えられない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする