図書館で春日部市史庄和地区(平成25年刊行)の戦後の歴史を見る。敗戦後、空家となった東武野田線の南桜井駅前の服部時計店の砲弾信管工場に米軍が進駐してきた。敗戦後間もないという。ここが選ばれたのは空襲の被害を受けていない建物が残っていたからという。47名の米軍軍人が突然農村地区に現れた。その後外地の引き揚げ者の中で住まいの無い人たちも余った工場宿舎に住んだようだ。
昭和21年3月末頃の埼玉新聞の記事によると賀川豊彦が米軍から農村振興の工場を作るという名目で払い下げをしてもらい(農村工場)が発足した。しかし戦前の古い設備となれていない工員で間もなく経営不振となり、設備とか人員を整備しなおし、再発足しリズム時計となった。目覚まし時計では結構な業績を上げていた。今は移転しスーパ-のヤオコ-となっている。
昭和22年の秋のカスリ-ン台風は今の感覚だと雨台風で房総沖を通過したが大量の雨で利根川中流の栗橋で堤防が決壊し、濁流が東京まで押し寄せた。とくに春日部市付近は高台を除いてほぼ水没した。叔父の実家は高台だったが水田等は長い間水没していてコメの収穫が地域で一番少なく、埼玉県からコメの供出圧力がすさまじく、連帯責任を問う集会が開かれていた。この地域が洪水と言ってコメの供出を少なくすると埼玉県の農民の努力が無駄になると言っていた。そのため集落の人は比較的被害の少なかった千葉県からコメを金銭で購入し、供出した所もあるようだ。
と表向き春日部市史には書かれているが市史の中身をか細かく見ると、叔父の生家のあった中野(今は東中野)でどちらかと言うと江戸川と庄内古川(上流を天神堀や島川、中流を庄内古川,下流を中川と呼称 する一級河川)との間の高台で水田より畑地の方が多い。しかしカスリ-ン台風で水没した地図では中野地区は2Mの冠水となっている。本当は中野地区のコメの収穫量はどうだったのだろうか。
昭和23年埼玉県のGHQの軍司令部長官が米の供出の件で南桜井村の農家の男性各一名を南桜井小学校に集め、訓示を行った。おおよその内容は他の埼玉県の農家はコメの割り当てを供出しているが怠けていると演説した。これは後の数字から隣の中野村への当てつけと思われる。叔父の実家はどのように米軍の強権を感じたのかは今知る人はいない。