年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

愛知県安城歴史館のボランティアとの話

2024年11月28日 | 宅老のグチ
明治から大正時代に日本の先進農業地帯と言われた安城市は安城農林学校の山崎延吉によって指導された。そこから出た教師たちによって、地主層の子弟の教育機関となり、下層農民の分断化が促進された。底辺の農民は都市に出て労働者となる者と小作人になる者と別れた。優秀な小作人の男子は学費の免除の軍人養成の学校に行くこととなった。
 安城での農業教育が実践から始まり、試行錯誤を経て、米作だけでない農業を目指している様子が見える。安城農林学校ができたころ(明治34年)は明治23年の明治用水の開削後に徐々に安城ケ原の開墾が進んでいた時代でした。この安城農林学校の農場主任となった千葉県川間村出身の染谷亮作は広大な学校の耕地を整備することとなりました。この話は今は安城の記憶から消えているようで、郷土の案内をする歴史館のボランティアの人も知らないようでした。染谷のあとに教師となった加藤完治の印象が強く、日本農本主義の中国大陸の侵攻思想に原点と満蒙開拓団の本を読んでいると感じる。
 九段下の昭和館図書室検索で山崎延吉と検索すると、多くの関連本が出て来る。同様に安城市の図書館でも出て来るが、量の多いのが斯民という雑誌である。
 この斯民という雑誌の初期の本には我農生というペンネ-ムがある。山崎延吉のことである。斯民は二宮尊徳の教えを広める大日本報徳会の機関誌であった。安城の農業は今の感覚だと複合農業と見ることも出来る。初期の成功例は鶏卵と言える。関東大震災後に東京が鶏卵の不足で難儀していたのを知り、安城から鶏卵を送り、大繁盛した。その利益で農業系の病院を作り、農民の病気を安価に治療した。
安城市にある農業系病院は、愛知県厚生農業協同組合連合会(JA愛知厚生連)が運営する安城更生病院です。この安城厚生病院がJR安城駅前にあって、建て替えで移転し、今はアンフォ-レという施設となり、そこに安城中央図書館があって、自分はそこで安城市の郷土資料を知らべていたことになる。この話は歴史博物館のボランティアとの会話で知った。普通の地方都市は駅前の一番高い建物は病院系が目立つと言ったら、この話題が出てきた。安城は農協とトヨタが強い。
 ついでに安城の農産加工の話題となって、森永製菓の中京工場の話があって、初期の生産物にトマトジュースがあった。製菓とトマトジュ-スには違和感があって、森永製菓55年史を読むと、企業の変遷の中で事実のようだ。
 気になるのが森永と岩下清周との関係が55年史では未完という記述があった。何があったのだろうか。トヨタも岩下清周との関係があったことを知っている。明治の冒険的金融家は敵も多く、批判されているが苦境を救った企業も多い。
コメント
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