年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

豊洲市場のポストトル-ス(真実後)

2016年10月16日 | 築地市場にて

15日築地市場内にある東京都講堂で盛り土の問題の専門家の会合があった。多くの市場関係者が参加していた。近所でありながら、居眠りしていて不参加となる。16日読売新聞の朝刊で『虚偽』で世論誘導という記事を読んだ。EU離脱問題などでイギリスのEU離脱派が虚偽を語っても、検証されず、批判もされない。真実を語ることももはや重要ではない。たとえ虚偽を語っても、それが『誇張』だったと弁明し、『言い間違い』をしたとごまかせば許容される。政治家は自らの正義を実現するために堂々と虚偽を語るようになった。今では情報操作として正当化されているという。 アメリカ大統領候補のトランプ氏が支持される根拠を見たような気がする。

 豊洲の汚染除去工事は無理があって、絶対長期にわたって汚染物資がでる可能性があるのに、目先の安心安全を強調し、盛り土さえあれば大丈夫と言い続けたツケがやってきた。そもそも汚染がどのような仕組みで食品に入るかを研究している人がいるのだろうか。不安感をあおり、検証できない食品汚染を強調しTV視聴率を上げることしかない報道機関には冷たい専門家の意見のように思える。そして豊洲で働く人の不安が残る。

 衛生管理の基本である温度管理ができない施設の築地は消えてゆく運命かも知れない。

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尾張本草学から

2016年10月15日 | 福神漬

上野の科学博物館で開催されていた田中芳男の展示会で殖産興業ということを感じていたがなかなか文献が見つからなかった。東京大学の歴史のところから尾張本草学伊藤圭介と田中芳男の比較からようやく理解ができた。さらに伊藤圭介と川路聖謨との関係を知った。

 日本博覧会の父ともいわれる田中芳男がなぜ福神漬の命名関連の文献に出てくるかなぞだったが殖産興業として缶詰入りの漬物を推奨してもおかしくはない。上野で開催された水産博覧会で缶詰が出ていた。

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のり弁の海苔を取ったら

2016年10月14日 | 築地市場にて

豊洲の建設状況の書類の情報公開されても一般の人は当時の築地の空気は感じないだろう。

 タバコの危険性は多くの研究があるがタバコの煙で食品が汚染され、それによって健康被害があるという研究はまだあることを知らない。人体への直接的なタバコの害の研究はあるようだが間接的な食品汚染とその結果に関しての研究はあるのだろうか。また研究している人はいるのだろうか。

 豊洲の土壌汚染の問題は豊洲で働く人の健康問題で食品への汚染問題はあってもなかなか証明できないと都の関係者は感じていただろう。だから盛り土の問題の訂正がなされなかった。しかし一般人は築地の空気と別に証明できない食品汚染問題だったことを取り上げていた。今後も豊洲の安全を証明できないため安心感が出ないことになる。そして築地市場の危険情報が漏れてゆく。

 築地市場の雨水の下水道から硫黄のような臭いがする。いま補修がなされていないので地下がどうなっているか何もわからない。

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政争のダシにされて

2016年10月13日 | 築地市場にて

 

中途半端の豊洲移転中断でまた築地の再開発の案も出てこない。屋上の駐車場のどこかで秋の虫の声。こんな環境でも季節は移り行く。市場長を変えても、築地市場の人たちとの信頼関係を築くのにどれだけ時間がかかるのだろうか。

風評被害が拡大する中、新市場長はどう対処するのだろうか。休市の日や平日午後の築地市場見学の外国人観光客は恐ろしいくらい増えている。

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豊洲はまだ工事中

2016年10月12日 | 築地市場にて

豊洲市場で冷蔵庫工事を依頼している業者と打ち合わせ。まだ工事中でようやく配管の穴が開いたようであとは電気工事を行い、試運転し完工検査となる。後の残りの工事は電話LAN回線と事務机等の搬入で終わる。東京都が補償するというので色々な書類作成の打ち合わせを行う。市場協会の補償要求が示されるので指針待ち。さらに補償対象外になったときのために弁護士を用意することの話し合う。

 冷蔵庫代金は全額を完工の確認後支払うことを話す。長い冷蔵庫業者の付き合いを東京都のミスで信頼関係を壊すわけにはいかない。フォ-クリフトの発注は止まらなかったがこの件で東京都の補償方針を聞いて対応することになっている。最初の都の説明では豊洲移転後環境に良いフォ-クリフトを買い換えたとき補助金が出る。しかし移転が3月以降に延びたとき補助金が出ない。つまり豊洲で使用することが前提で築地で使うと補助金が出ないことになる。従って車両登録が出来ないのである。宙に浮いている少なくとも数百台のフォ-クリフトとさらにそれ以上のタ-レ-がある。

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築地市場で午前2時からの仕事あります。

2016年10月11日 | 築地市場にて

日ごろ挨拶をしている冷蔵庫の管理人との雑談で水産部仲卸さんの従業員が豊洲騒動で経営者が不安になり、家族経営をするためリストラの意向を示されたと言って、次の仕事がないかと相談された。午前2時から働き、築地で20年以上まじめに仕事をしていると言う。すぐに働き場があるというと伝える。ただし同じ築地で働く以上円満退社でなければいけないと伝える。

 今日当人から伝言で勤めている仲卸さんへ退社の申し出をしたら、正社員になり、昇給すると言う。会社としては無口だったのでまさか退社するとは思っていなかったようだ。築地で20年以上働く人は貴重だ。

 色々な築地で働く人の動揺が伝わってくる。先行きが見えない。やっとまとまって豊洲へ行く気分になったが東京都の情報公開のミスでまた一からの出直しとなる。築地市場協会の苦悩が実感する。50年かかった合意が壊された。地下の汚染が食品に入ると思っていないが豊洲で働く人は閉鎖空間で長時間滞在するので不安がある。我々は炭鉱のカナリアではない。

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もし築地で再建ならば

2016年10月10日 | 築地市場にて

あまり知られていないが青島知事時代だと思うが築地市場で再整備が行われた。今の大江戸線築地市場駅と直結したビルげ建てられ(記憶がはっきりしないが30階位の高層ビルで東京都の施設や銀行などの事務所も入る計画だった。これは場内業者も入る事務所になるかは不明だった。)ところが一部の施設(今残っているのは隅田川の桟橋の上にある駐車場)が完成し中断となってしまった。築地市場の再建はすべての築地人は賛成していたが実際場内で工事が始まると分断される地域の業者の反対で設計が進まず、中断となってしまった。この原因は築地ではたく人が盛業となっている店に得意先を持って転職する例がよくみられる。このため同業者間のケンカが絶えずあり、嫌がらせもあるという。そのようなことは外部に漏れないため簡単に築地市場内の再建案を出す。特に水産部はまとめ役が不在で現在に至っている。豊洲へ移転できなければ築地市場で腐っていくしかない。総論賛成しかし自己の店が不利な再建整備案なら反対のところが多い。

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前門のオリンピック後門のHACCP

2016年10月09日 | 築地市場にて

日本では「危害要因分析にもとづく重要管理点」と訳されることもあるHACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point)は2年後に日本で実施されるようになる。全国の食品を扱う業者はこれに従うことになる。もし豊洲移転が伸びれば築地の温度管理はなされていないので、取引先は特にコンプライアンスの問題で築地からの食品の購入は避けるようになる。炎天の夏、要冷蔵品をむき出しでタ-レ-運搬する風景は 築地の特色であるが食の安全安心の講習会ではアウトである。

 もし築地で無視されたHACCPはどうなるのだろうか。温度管理に対して食の安全安心は築地ではないことになる。ヤマト運輸がク-ル宅配便の温度管理でどれだけ批判されたか知らないのだろうか。

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節目の日の一月前

2016年10月08日 | 築地市場にて

本来ならば豊洲移転の一月前で忙しいのに心はヒマ。前月末のバタバタも消え、年末の打ち合わせで忙しい。そんなところに外部の営業が来る。全ては移転日が決まらないと商談を断る。今のところ机等の発注が中断している。伝票類とか住所変更案内も中断。築地周辺の印刷屋は困惑しているだろう。

 移転が延びて良かったのは一回本気で予定を組んだこと。次があれば順調に行くだろう。

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長期戦につき

2016年10月07日 | 福神漬

豊洲移転の先行きが見えない中、再度福神漬の確認作業に入る。

2014年の大学入試センタ-試験の国語の問題で『刀』というものが忠義の精神の現れとみなしていると書いてあった。福神漬に入っているナタ豆は漢字で刃豆と書く。なにか武士道と関連がありそうだが文献は見つからなかった。

 センタ-試験の問題で刀が忠義の精神を表していると書いてあった。戯作者梅亭金鵞がただ上野周辺で行われていた七福神巡りから福神漬と命名しただけではないと感じていた。福神漬の命名時期と推測される明治15年以降は自由民権運動が盛んで、旧幕臣の言論家が新聞論説で薩長政府を攻撃し、弾圧されている時期と重なり、まともな表現で抗議が出来ない時だった。

 多くの言論弾圧法律で自由民権運動は失速し、福神漬に入っている(なた豆)の比喩としての意味が消えてしまったと思われる。そして明治憲法(明治23年)が発布され、言論は国会に移っていった。

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野菜産地の悲鳴

2016年10月06日 | 築地市場にて

連日の社内連絡で長雨による野菜の高騰の様子がわかってくる。今月はベッタラ市の月だがまた雨だろうか。煙でいぶす秋田名産の燻り大根も不作になるのだろうか。いわゆる燻製の食品は安全性の問題が生じていないようだが何処に差があるのだろうか。

 EUで日本産の鰹節の製造方法が安全性の問題で差し止められていると言う。燻製の問題らしい。同様な問題でワラビの漬物がアメリカに輸出が出来ない。亜硝酸の問題から発ガン性ということで。 

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加工食品の原産地表示

2016年10月05日 | 築地市場にて

日本で加工食品の原料原産地表示は漬物から6種類で始まった。ようやく全部の加工食品で始まるようだ。この表示制度は漬物業界の慢心で原産地を表示しても国産志向の強い日本では外国産の漬物は売れないと思っていたが長いデフレで価格が優先され、一時5500億円あった漬物の売りが今では3000億円強まで減ってしまった。

 貿易の自由化が加速すると関税率の問題よりブランドの問題に変化する。

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今何が困っているか

2016年10月03日 | 築地市場にて

 

テレビで豊洲報道があるが聞かれても、的を外れた報道であきれてみているだけである。盛り土があれば汚染が阻止できることはないことが証明されている。また汚染があってどの様な害があるかが語られていない。周知の事実のように扱われていて、本当に今の市場流通で汚染が浸みることがありうるのだろうか。

 市場で働く人だけの問題でこれほど大げさにして落としどころが無くなってしまった気がする。泥論争で築地のマイナス情報のパンドラの箱を開けてしまったようだ。

 

古くなった設備が11月移転ということで補修していない。これからドンドン壊れていくが都知事に決断を先送りされているので補修のことも悩む。新品は豊洲にある。

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ナポレオンの缶詰から福神漬・さらに幕末史へ2

2016年10月02日 | 福神漬

石井研堂の明治事物起源『缶詰の始まり』から明治3年の工部大学お雇い教師で米国人とは誰のことだろうか。この明治3年には鉄道開業のための測量が始まっている。四谷区津の守(つのかみ)は今でも地名として残っていて新宿区荒木町で津の守坂などがある。維新期ここには美濃高須藩上屋敷があって高須4兄弟の出生地として知られる。福神漬に関して尾張徳川家の方が尾張本草学の中心地であったせいか気になる。

 なぜ千葉県行徳の山田箕之助がまだ明治の初めに四谷で異国人の手伝いをしていたのだろうか。まだ維新後とはいえ外国人に対して偏見の多い時代で誰かに推挙されたかも知らない。山田の先祖は幕府御用の漬物商人であったので維新後は失業したと思われる。四谷は治安維持関係の下級幕臣が住んでいた気がする。

明治7年、紋別漬を改良し醤油漬にし、缶詰に入れ、三井物産会社からハワイ・米国に輸出したという。明治7年の三井物産は三野村利左エ門の時代(利左エ門は明治10年2月死去・三井物産は明治9年発足)

資料としての缶詰の始まりは誤記が気になり、あまり調査する気がなかった。

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ナポレオンの缶詰から福神漬・さらに幕末史へ

2016年10月01日 | 福神漬

豊洲の展開が読めないので福神漬のことを再度検証することを10月から始める。

 缶詰はフランスはナポレオンが軍隊用の長期保存に耐える食品の発明に懸賞をかけたことから始まる。当初はビン詰めから始まり、英国で発展し、アメリカに行って爆発的に普及した。発明の本場となっているフランスでは缶詰食品の発達はなかったという。食に関してこだわりのある国では缶詰は普及しないという。

 今福神漬は袋詰めが普通だが明治期に創製された福神漬は上野で開催された博覧会で見た缶詰を取り入れて発売された。

 

缶詰の始まり 明治事物起源 石井研堂著 国会図書館デジタルライブラリ-から

419ペ-ジ

缶詰の始まりは明治3年中、工部大学校雇教師米国人某が、四谷区津の守に住まいて、四季の果物類を缶詰となし、自用に供し居たるを始めとする。当時この外人に雇われ、缶詰製造の手伝いを為したるは、千葉県行徳の山田箕之助と言うものにて、同人の先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死す)はかって将軍家の漬物方を勤めしとあり、その家記によれば、寛永年間北条阿波守天草征討の際、軍中に副食物の乏しきより、握り飯には一切黄な粉塩を用い、のち品切れにて胡麻塩の改めるも、これまた不足を告げて、仕方なく大根を細かに切って、味噌溜りに漬けて溜り漬と称し軍用に供した。然るに文化年間露人北海道に乱入したるころ、近藤重蔵氏石狩国紋別に於いて、前記溜り漬を醤油漬に改めるより、これを紋別漬と称える云々とあり。かくして箕之助は。明治7年前記の米国人缶詰方によりて、その紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源である。同年三井物産会社より、下谷池の端某店に托し、紋別漬200個をハワイ及び米国に輸送したるを以って缶詰輸出の始めとするよし。

 

 数年前この文章から何を意味しているか解らなかったが、今は石井研堂の書いた理由が想像できる。

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