年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

アメリカでの叔父の特攻記録

2019年05月07日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

dd514で検索すると叔父の特攻記録が出る。一部日付の誤りがあるがウィキペディアは当時の様子がわかる。自動翻訳は軍事用語が変な日本語となっていて辞書で調べなおした。台湾を出撃したのは5月20日の夕方なのでこの記録に時間は無い。別の被害を受けた記録で叔父の特攻隊と確認できる。レ-ダ-を備えている駆逐艦へ特攻したのはかなりの飛行技量があったと思う。海面すれすれで台湾から沖縄嘉手納までの飛行だった。この時期の特攻成功率は少なく、5機と誘導機が特攻できたの彼らが優秀なパイロットだった証明である。彼ら6人の年齢は18歳から22歳だった。

昭和20年5月13日、サッチャーは沖縄近くの慶良間列島に着きしました。駆逐艦サッチャ-は、日本の航空機が輸送船停泊地に入る前に、その航空機を検出し迎撃するレーダ-による探索任務でした。昭和20年5月20日、DD514サッチヤーは停泊地に接近する多数の日本の航空機を発見した。全ての船が発砲し、そしてサッチャーは全ての艦上の備砲で攻撃する飛行機に命中させるように操作した。低空飛行のNakajima Ki-43 "オスカー"戦闘機(一式戦闘機・隼)が駆逐艦の左舷側を通過したとき、彼女は25ノット(46 km / h)まで速度を上げ、20 mmと40 mmの銃で射撃を始めました。神風(特攻機)は急上昇し、横転飛行し駆逐艦に飛び込み、橋の後方を叩いた。橋の上のすべての力と操縦制御は失われました。レーダーとジャイロシステムの両方に被害が出ていました。すべての外部通信が失われました。そして船の揺れを減らすビルジキールの間に6×9フィートの穴があった。BoydPavlicは負傷者を取り除き、そして火を消すのを手伝うために一緒に来ました。14人が死亡または行方不明が発生し、53人が負傷したため、被災船は慶良間島に牽引された。サッチャーは 7月1日まで修理のための乾ドックの入場を待っていた。13日に、彼女は海の出撃準備ができていて、Buckner湾(沖縄のどこか不明)で台風を退避した。19日、神風(特攻機)が湾に滑り込み駆逐艦に飛び込んだ。彼の目的は彼の前任者(叔父の特攻)ほど正確ではなかった、そして彼は一緒に爆発して燃やすために水辺の上で左舷側から跳ね返った。被害はわずかで、2人の男性だけが負傷しました。

サッチャーは7月25日にアメリカに帰還した。Ulithi、Majuro、Eniwetok、ジョンストン島、そしてハワイ経由した後、彼女は8月20日にワシントン州ブレマ-トンに到着しました。調査ボードは、船が廃棄されなければならないことを決めた。駆逐艦サッチャーは昭和20年11月23日(1945年)に退役させれた。1945年12月5日に海軍の艦船リストから外れ1948年1月23日にカルフォルニアのオークランドのラーナー(株)に販売されくず鉄となった。

名誉

サッチャーは第二次大戦の奉仕に対して12の戦闘勲章を授与された。

 比較的詳しい記録でどうやら叔父の特攻記録が画像でありそうだ。6×9フィートの穴は随分小さい穴と思う。飛行機の燃料火災で死者が増えたように思える。

 

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5月3日南鹿児島市知覧での特攻慰霊祭に参加しました。

2019年05月06日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

10年ほど前から知覧特攻基地戦没者慰霊祭の出席案内が届き始めました。これは息子が九州をバイク旅行中に親族から知覧特攻平和会館に叔父の写真があるという話を聞いていたので一度確認するよう指示していた。これは旅費援助の理由としていた。何も詳しい事情を知らない息子は知覧の平和会館で写真を見つけることが出来ず、会館の人に叔父の名前を告げ、探してもらった。間も無く携帯が鳴り、息子が訪問した日は叔父が台湾から出撃した命日だった。この訪問から知覧から毎年慰霊祭に参加するように案内が来ていたが築地の仕事は5月の連休は休みをとることが出来ず、子供を参加させていた。戦後70年の節目の年の九州NHKニュースで娘が顕花するところが放映されて見ていて驚いたという。高齢化した出席者の中では目立ったのだろう。豊洲へ移転し、引継ぎも終わりつつあるので知覧の慰霊祭のヤット参加することが出来ました。

 知覧茶の水は目から出ました。

慰霊祭の内容はまだ心の整理が出来ていないので書けませんが最後に(加藤隼戦闘隊)(同期の桜)を合唱し終わりました。特攻平和会館へ向かう道は青々した桜で散ってしまった人たちの無念が染みる青さでした。

 散りつつあった靖国神社の桜の意味がはじめて理解できました。桜の標本木は死んでしまった戦友の思いの桜で散った桜も意味のある桜と感じました。なぜか学生のとき同期の桜は嫌いな歌でした。

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戦果のある特攻の怖さ

2019年05月05日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年5月の叔父らの台湾から出撃した陸軍特攻隊は米軍の記録で6隻の戦果があった。DE-339護衛駆逐艦USS JON.C.BUTHER.高速兵員輸送艦チェイス(米軍名はまだわからず。日本の記録)至近激突。高速兵員輸送艦リジェスタ-〔レジスタ-)1機命中上部損傷。

LST808爆撃後、座礁。最終的に命中。貨物船ブラウン.ビクトリ-損傷

特攻隊は5機と誘導機1機が出撃したが未帰還機の誘導機も特攻したように思える。しかし日本の記録では特攻5機で未帰還1機となった。

USS THATCHER DD514駆逐艦サッチァ-の死者14名と特攻で行方不明者2名の実名も検索できる。叔父らの実名と米軍不明者の実名もネットで検索できる時代となった。戦争だからといって個人に対しての恨みは無いとは言えない時代になった。USS THATCHER DD514駆逐艦サッチァ-はアメリカの記録では10以上の褒章記録がある。と言うことはそれだけ日本の死損傷があった。七生報国と言う言葉が知覧でよく目に付いた。一回で十分だ。

 もう戦争は相手の個人名が不明だった時代が終わる時が来たようだ。


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USS THATCHER DD514 米駆逐艦を特攻する

2019年05月04日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

叔父の特攻は5人の仲間と誘導機1機で沖縄嘉手納沖に集結していた米艦船群に特攻した。昭和20年の特攻では米軍の迎撃が準備され、さらに経験の少ない日本のパイロットが多く、殆んどといって良いくらい戦果が無い攻撃だった。叔父の攻撃隊は米軍の記録にも残っていて、USS THATCHER DD514 と検索すれば英文の記録が出てくる。

 アメリカでも戦友会が盛んでまだ活動しているようだが戦後74年ともなれば100歳近くとなってどんどん活動の場がなくなっているようだ。日本もアメリカも既に第二次大戦の目撃者は消える時期に来たようだ。

 叔父ら攻撃で米駆逐艦は14名即死したようである。簡単な修理でもう少し戦争に参加し、終戦後間も無く、クズ鉄となったようだ。

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大本営発表で

2019年05月02日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

叔父が特攻死した昭和20年5月の新聞記事図書館で見る。物資が欠乏しているのでペ-ジ数が少ない。こんな新聞を読んでいたのかを知ると愕然とする。8月の上旬の新聞を見ていると敗戦まもなくと言うのに特攻機記事が目立つ。それが8月15日を過ぎると一転して過去の戦争礼賛記事が無くなる。節操の無い新聞記者は戦争責任がある気がする。記事を作るため特攻を推進したのではないかと考える。

 日本での戦争報道は西南戦争から始まる。

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高木俊郎著陸軍特攻隊を読む

2019年05月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

連休中の本で〔陸軍特攻隊・高木俊郎著)を読んでいる。どうやらこの本で菊池寛賞をもらったようだ。叔父が陸軍特攻隊で昭和20年5月に沖縄嘉手納沖にいる米軍艦隊に同僚5名と誘導機1名で特攻した。

 もしこの本で書かれていたことが事実なら父が戦後の法事等で埼玉の田舎で感じていた叔父の犬死感はあったに違いない。犬死感を息子の私に語ることなく昭和30年末に私の父は死去した。叔父は陸軍特別操縦見習士官1期生で志願した入隊した。戦歴を見るとビルマ戦線に参加し、レイテ戦線末期に参戦・その後昭和19年末に日本へ帰り、一式戦闘機を受け取り再訓練し、昭和20年2月27日に茨城を出発し台湾に向かった。飛び立った経路を見ると転々としている。もうこの時期は沖縄上空の制空権が無かったかガソリン等の燃料不足・新型飛行機の製造初期不良の恐れでゆっくり台湾に向かったのだろうか。昔と言っても昭和の40年代までトヨタの車でも新車の1000KMまではあまり高速走行をしないでゆっくりエンジンを慣らして下さいと言われていた記憶がある。何時の間にこのようなことは言われなくなった。

 今の製造と違って戦時の粗製乱造の戦闘機の初期不良・整備技術の不慣れなどで精神力過多の日本陸軍幹部の意識で叔父は特攻で犬死したと戦後の10年で感じていたのだろうか。あまりにも酷い作戦で自己の生命の安全確保で撤退飛行に護衛機を付けていたと言う。レイテの特攻で特攻機に米軍に対して護衛機を惜しみ特攻機が米軍に突入する前に易々と迎撃され、ほぼフィリッピン陸軍航空隊が戦果なく壊滅したようだ。戦場新聞記者だった高木俊郎氏が戦後特攻機記事が作文であったことを書いている。捏造した記事に陸軍幹部は自己満足し、やたら若い命を消耗し、日本を抹消する危機があった。昭和天皇の判断は無ければどの様に悲惨が拡大していたかは沖縄戦線の悲劇から解る。このような意味付けで叔父の沖縄特攻を意義付けないと特攻遺族として耐えられない。

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