「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「甘雨と霖雨」

2021年08月18日 | ニュース・世相

             
                 雨乞いには黒馬           止雨(しう)には白馬

雨にまつわる興味深い新聞コラムに目が留まった。
奈良県の丹生川上神社には「天下のために甘雨を降らし、霖雨(長雨)を止める」という神様が祭られていて、奈良時代から朝廷による雨乞いと止雨の祈願が行われたということである。雨乞いには黒馬を、止雨には白馬が奉納された。それが後の絵馬奉納の起源とされる儀礼だという

平安時代前期までの正史に記録された馬の奉納は黒馬が22回、白馬が20回と書かれている。
つまりこの数値を見ても、雨ごいに劣らず、長雨を止めてという願いも多かった。お天気続きにも泣かされ、長雨に苦しんできたのは、日本列島に住む我々の宿命なのかもしれない。それにしても、列島各地で死者や行方不明者を出す記録的な長雨にはウンザリ。いい加減にせーよ!!と叫んでみたくなる。

良くも悪くも、IT万能の現代社会では、欲しい情報の全てが瞬時に手に入る。天気予報もこと細かにピンポイントで「雨の降り始める時刻」「雨雲接近の様子」などの詳細がこの目で確認できる。スマホもテレビの天気予報もなかった当時の人たちは、どうやって自分の命を守る行動をとったのだろう。雲行きを眺め、風の方向を確かめ、気圧の高低を肌で感じて、危険を周囲に促す人生のベテランがあちこちにいたのだろうか。

昼間はもちろん、夜中も明け方も関係なく、ピロ~~ン・ブーブーブーと鳴る緊急メールの着信音さえ、安眠の邪魔に思うこともある。しかしそれは、一種の贅沢であり、危機感に対する甘えだ、とお叱りを受けるかもしれない。今の長雨による水害や土砂災害の危険から身を護るための天の声と受け止める必要があるのかも。やはりスマホは身近に!ということになるようだ。

カラッカラのお天気続きでは雨乞いの祈願をされ、今度は止雨の願掛けをされる神様もお気の毒ではある。「どうすりゃいいの?」。
所詮人間様は弱い。その割には想いが強い。「ああして欲しい、こうなって欲しい」と神頼み(相手頼み)をする。しかしね~神様にもお天道様にも事情があったり、ときに自己主張もあるかもしれない。こちらの一方的な想いが届くとは限らない。日干しにならないよう、洪水に押し流されないよう気を付けて時節を待つ。結局はそこに落ち着くようである。

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「新幹線の見送り」

2021年08月17日 | 家族・孫話

                                        

今年4月から神戸の学校で学ぶ孫三兄弟の次男君。
あまり大きな声では言えないが、夏休みの一時帰省をした。完全寮生活で、夏休みでも食事は提供されるものの、寮の仲間や友達も多くが帰省。しばらくは寂しさを我慢していた。しかしそこはまだ子供の域を出ない。看護師である母親の厳しい監視と規制の約束を得て「神戸からの県またぎ移動」は実現した。

帰着後10日間は自宅の一室にこもった。好みの食べ物を作りたい祖母の元にも、最後の一日以外はやって来なかった。それほどに注意して、完全寮生活という囲いから束の間ではあるが、開放させてやれたのは、ジジとしても有り難かった。自らの想いを積極的に表に出さないタイプなので、多くを求めず少しだけ話をした。「好きな道を選ばせてもらったので、学校も楽しいし友達もいっぱいいるよ」と。この言葉が聞きたかったのだ。ジジ用のメッセージを準備していたのだろうか?そんなことはない、偽らざる今の彼の心境なのであろう。「食事代の足しに」わずかな小遣いを握らせた。

帰りは、ジジのクルマで最寄りの新幹線駅に見送り。年の離れた三男君も見送りしたくてたまらない様子で一緒に行った。間もなくレールスターが入り、次男君が乗り込む。「オレ前の方で送るから」と三男は先頭車両まで走った。発車したテールランプを長い間見送って戻ってくる三男は何度も何度も顔を拭っていた。こらえていた涙が溢れそうで、前の方に駆け出したのある。大学1年の兄を見送る小6の弟が涙を流す。普段はケンカ相手のライバルでも、しばしの別れとなるとこんなものか。これが肉親の本音なのか。思いがけない光景に、素知らぬ顔で目をそらしたジジも心温かくさせてもらった。

小さな田舎町の小さな新幹線ホームにも「見送り」そして「出迎え」の、胸に込み上げるドラマは存在するのである。それはどんな大きな駅にも負けない人間模様なのであろう。自分自身はこのホームでの見送られも出迎えも経験はないし、これからもあるかないか分からないが、ホームを吹き抜ける風以外何もない田舎の駅ゆえの「豊かな情」を感じさせる見送りとなった。

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「平和を考える日」

2021年08月15日 | ニュース・世相

              

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「降り止まない雨!」

2021年08月14日 | ビッグニュース

頑張っても頑張ってもその努力が報われないとき。ひたすら我慢して想いを届けようとしても届かないとき。そんな時の慰めや、一息入れさせてあげるタイミングで激励の声を掛ける言葉に「明けない夜はない」とか「降り止まない雨はない」というのがある。

この歳になってはそんな慰めや激励とは少し縁遠くなった感はある。が、まるっきり縁無しとは行かない。そりゃ感情ある人間だもの。暖簾に腕押しみたいなことが続けば、落ち込むことだってあるさ。
そこで気になるのは、11日夜から降り出した雨が止む気配を見せないことである。       

       
九州一円から中国地方、関西、関東、東北まで半端でない大雨が降り続いている。それも日本列島至るところで土砂災害や河川の氾濫、大水害をもたらす、これまでに経験したことのない大雨が降り続いている。日本三大奇矯の一つ名勝「錦帯橋」が架かる錦川の源流とも言える、市の山間部では500ミリに近い降雨量という。実におとろしいことである。

  
その上に、今夕の雨予報を見ても「降り止まない雨はない」と思えない雨雲分布であり、線状降水帯の危険を秘めている。大きな川の源流付近に降る大雨は怖い。いつどこで流れがまとまって下流を襲うかわからない。常にその危険性を潜めている。これほど多くの人が怖れおののき、困っているのだから「降り止まない雨はない」のことわざを実現して欲しいものだ。

        
そして今ひとつ。国家政策として、東京都はじめ全国都道府県挙げて対策を叫んでいるのに、減少どころか増加が止まないコロナ感染である。コロナに関しては、降り止まない雨を上がらせるほど難しいことではないような気がする。命を脅かす感染症にかからない努力は、個人の対応で可能である。線状降水帯を追い払うよりは容易いことだと思うのだが、間違っているのかねー。

これこそシャカリキになっても一向に成果が表れない、気持ちが伝わらない暖簾に腕押しの空しさを覚える。

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「アフターTOKYO 2020」

2021年08月13日 | ニュース・世相

                

あれほど賑わった、そしていっぱいの感動をもらった「TOKYO2020」。
なんだかんだ言いながら、テレビはもちろん、新聞も週刊誌も報道機関は挙げて、オリンピック一色に塗り込められた。
そして終わった。夢の舞台はパラリンピックへと主役の座を譲ろうとしている。

そんな報道機関が今追い立てられるのが、コロナ感染爆発に伴う、医療崩壊といった人間による異常現象の描写であろう。
当初は感染者の数値を数え上げていればよかったかもしれないが、今は違う。医療崩壊によって迫られる自宅療養の哀れさ、入院が受け入れられない人の末路。そういった現実をもっともっと大きく大切に報道して「コロナの恐ろしさ」を見せつける。そうして感染防止、外出・人の流れを抑える、自粛に努める、そんな意識すなわち『自覚』の呼び覚ましをすることこそ肝要ではないか、今がその時ではないのか、と岡目八目が密かに叫んでいる。

そんな苦労を共に生きる中で今度は、しつこい前線停滞による線状降水帯の居座り。長時間続く豪雨。人の命を脅かすことが続いている。これらに対していち早く安全な行動で自分の生命は自分が守る。それはまさに自然災害もコロナ禍も一体のような気がする。どちらも、自分で行動を起こすことで自分の命が救われるという共通点があるのだ。他人事じゃないのよ。ガンバローニッポン!!守ろう命!!

そんな切羽詰まった状況の中ではあるが、アフターTOKYO2020の数えきれない、楽しいエピソードに目を向け、耳を傾けたくなる。もっとも、中には、地位も名誉もあるええ年したおっさんが「自費で金メダルの交換を……」などと申し出なければならない、下らん話も歴然とある。が、そんな憂さを晴らしてあまりある素晴らしい話がいっぱい。せめてそちらに目を向けてアフターTOKYO2020を今一度振り返りたいと思うのだが、そのためにも、レベル5の大雨警報がいっときも早く収まることを願いたい。

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「暑さいっぷく」

2021年08月11日 | 季節の移ろい・出来事

    

8月も半ばを迎えると、別に意識して植えたわけでもない、タネを撒いたわけでもないのに、庭のあちこちに自生のテッポウユリが真っ白い花を咲かせる。どんなところにでも根付き、ひょろひょろっと伸びた長い茎の先に3輪・4輪・5輪の花をつける。場所によっては鬱陶しく邪魔な感じもするが、まあいい、せっかく1年の歳月を生きてきたんじゃないか、花を咲かせてやろうよ、ってなわけであっちこち数多く咲いている。

背丈1.5mの五葉の松の根っこに生えたおユリさんは、松の上から顔を覗かせ、奇妙ではあるがなんとも愛嬌のあるコラボレーションをみせている。こんな悠長な気持ちになれるのも、一昨夜の猛烈な一雨によって暑さいっぷく。あの猛暑酷暑を一瞬忘れさせてくれる風情があるからかもしれない。

一旦目線を上げて世の中を見渡すと、こんな風情を感じている場合ではない危機状態に陥っていることを厭が上にも知らされる。大都会や観光都市のコロナ感染拡大は、目を覆いたくなる惨状を示している。今や感染爆発とも呼ばれるようになった。ということは、高齢者に限らず30代40代でも簡単に感染するし、医療体制が追いつかない現状では、年令に関係なく{ DeathRoad }まっしぐらという危機感を共有したいものだ。

『感染→医療崩壊→自宅療養→三途の川』という方程式を自覚すべきである。何かしら感染は他人事のような大都会の感染者の推移。その恐ろしさ、その実態をどう捉えているのだろうか。都会の感染が収まらない限り地方への拡散は収まらない。これ以上拡大傾向を見せるなら、完全ロックアウトも視野に、本気度をあらわにした対策を取るべきである。

『自覚』とは、自分のあり方をわきまえること。自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。と、広辞苑にある。説明はややこしいが、つまり「自分を感じ取ること」「自ら悟りを開くこと」である。努力したいものだ。

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「盆前恒例行事」

2021年08月10日 | つれづれ噺

               
                      年に一度の恒例行事、墓石磨き・掃除

連日の灼けつくような暑さでは、いくら日の暮れ時分の作業とは言え、なかなか腰が上がらなかった。待望のひと雨が来て、いくばくかの涼しさをもたらしてふと気が付けばお盆が目の前に迫っている。「そうだ、お墓掃除に行かなければ」。今夕やっと重い腰を上げて、バケツ2杯の水と墓石磨きグッズ、草取り用かいかきなど一式を積み込み、クルマで20分の墓地に走った。

夕まぐれの血に飢えたやぶ蚊と闘いながら1時間あまり汗を流す。誰が喜んでくれるわけでもないお墓掃除であるが、先祖が眠り両親のお骨が鎮座し、いずれはこの身の永遠の棲み処となるであろう場所。磨き上げ草取りをしてホッと一息。これで安堵してお盆の墓参りが堂々と出来るというもの。
ところでこの例年恒例行事があと何回、何年私たち夫婦でできるのだろう。そういった墓守が出来なくなったらいったいどうなるんじゃろう。

特に昨年あたりからこの問題が妙に気になり始めている。そのために、娘と息子をつくったわけでは決してないが、当人たちの生活に支障を来してまでお墓を守れとは言いにくい。お墓問題も終活のひとつであり、断捨離の対象と考えなければいけないのだろうか。
家系の存続などという大袈裟なことではなく、先祖代々のお墓を守るだけでさえ難しくなったとはねー。

菩提寺に永大供養をお願いして、墓じまいという選択も考えなけりゃならいのか。少し寂しいねー。
世の中全体が地球主義と呼ばれるグローバル社会の中を生き抜くには、個の尊重が少し薄れてしまうのも致し方ないところか。いいのかそうでないのか、よくわからないねー。
分かっているのは、お墓掃除が恒例行事であり、その行事に併せて墓の行く末を悩む年間年間恒例行事の一つになってしまったことである。

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「ありがとう、TOKYO2020!」

2021年08月08日 | ビッグニュース

                    
         閉会式 競技を終えて、参加国国旗に続いて選手団入場
      
           国境を越えて和やかに談笑する、各国選手団

色々議論が交錯した「TOKYO 2020」。無事に、と言おうか曲がりなりにと言おうか、何はともあれ計画通りの日程を終え、閉会式を迎えた。勝手な個人的な感想を言わせていただく。

文句なし感動した。それぞれの種目で、長年の研鑽と訓練を積み上げてきた人たち、いわゆるアスリートと呼ばれる人たちの頂点を目指したシビアな闘い、勝って泣き、負けて涙しなら相手を称える姿。そして闘いの側面に刻まれたヒューマニズム、国境や人種など関係しない感動のドラマ等々。数え上げればきりがない感動を頂いた。ありがとうTOKYO2020である。  

   
お別れセレモニーの花火に包まれる国立競技場   「ARIGATOU」が浮かぶフィナーレ

コロナ収束も見えない中何故オリンピックなの?と言う声も十分この耳にも届いていた。しかし正直な気持ちは、コロナに圧迫されそうな閉塞感をいっときでも発散させ、忘れさせる何かが欲しい。それが、計画から1年は遅れたが、我が国で開かれる世界のスポーツイベント、オリンピックであった。間違いなくその効果を果たしたと思っている。コロナ感染者数の増加とオリンピック開催を単純に重ね合わせるところに問題ありではないか、などとも思っている。

数え上げればキリがないくらい多くの感動の中で、一つ例を挙げるとすれば、走り高跳びの金メダリストが二人になったというお話し。
最高の高さに残った二人が、死力を尽くして闘ったので、さらに高さを競う気力・体力が失せていた。そこで一人の選手が審判に「二人に金メダルはダメか?」と申し出たところ、審判が組織委と相談して二人の金メダルを認めた。もう一人の選手はその結果を涙ながらに喜んでそれこそ跳び上がって抱きついた。二人はお互いの健闘を認めてしばらく抱き合っている映像が何度も流れた。

申し出た選手も偉いが、受け止めた審判も組織委も大した度量である。まさにその審判に金メダルを上げたい。終わった後から聞く話としてはさほどの感動はないかもしれない。しかしその現場を見た者にとっては、語るも涙の人間模様を見せつけられた。

これ以外にも、野球・ソフトボール・卓球・バスケット・サッカーなどなど、オリンピック金メダルを賭けた闘いだからこその面白さを堪能させてもらった。
掛け値無しに、ありがとうTOKYO2020と私は感じている。

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「夏雲の向こうに!」」

2021年08月07日 | 季節の移ろい・出来事

         
                         山にも海にも、威圧的な大きな積乱雲が

連日の息苦しいほどの暑さにおののき、自らの健康被害が気になって、一日も早い雨を願う「雨乞い」を拙ブログで試みた。
お天道様にもそれなりのご都合があるらしく、すぐには願いを聞いてくれなかった。しかし、すでにあの時点で日本列島を囲むように3つの台風がトグロを巻いていた。その中でも1番遅く発生した台風11号は、いち早く熱帯低気圧に変わりどこかに行ってしまった。

残りの2つは相変わらず日本列島周辺をうろうろ。それでも我が住む町では台風の影響など全く感じさせなかった。それどころか、竹藪の向こうには山の積乱雲が、海には海の積乱雲が、威圧的な様相で迫りながらも、どこか愛嬌のある夏雲の遊びを見せている。
そして今日の午後に入って、この積乱雲の向こうにうごめく台風10号は、最終盤を迎えたオリンピック会場の東京、関東地方に急接近。今ひとつの台風9号は、九州南部から上陸し、珍しい進路を示して山口県に上陸という予報が、だんだん現実味を帯びて来た。

雨乞いをしたのは、ほんの少しだけ暑さを和らげて欲しい一心であった。人々の生活や財産を脅かす台風ほどの大雨をお願いしたわけでは決してありませぬ。程よい雨で大地を潤し、空気を冷やして少しの涼しさが欲しかっただけですよ。どうか、大水害、土砂災害、河川氾濫などなきよう、ゆるい雨をお願いしたい。

苦しい時の神頼み。お願いをしたからには相手に任せるのが本意ではあるが、この神頼みは人類の幸せを願う一心なので、勘違いなく穏やかに通り過ぎて欲しい。でも神様にもお天道様にも勘違いというのあるのかしらねー。

 

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「平和への祈り」

2021年08月06日 | ビッグニュース

     
          広島 原爆ドーム                  8月6日 過去へ、未来へ祈りを捧げて

暑い熱い8月6日。あの忌まわしい原子爆弾投下から76年の原爆の日。
原爆死没者慰霊式・平和祈念式がしめやかに営まれた。76年前のこの日の朝もものすごい暑さであったと聞かされている。

夏休みじいちゃん学校の唯一の生徒、小6の孫君が8時12分に母親に送られてやって来た。「じいちゃん、もうすぐ黙とうする時間よ、どっちを向いたらいい?」とジジに迫る。東の空に向かって起立。原爆投下の時刻8時15分に合わせて、近くのハザードスピーカーからサイレンが鳴り響く。1分間、身じろぎもせず黙とうする孫君の後ろ姿に、学校での平和学習の効果がうかがえる。そして将来を担う彼らの心の奥に、平和の有難さを、核兵器のない世の中の平穏を刻み込ませる大切な記念日でもある。 

世界の大国、先進国、先進途上国など、色んな呼び方をされる多くの国が「自分たちは核兵器を何発保有している」と豪語する。そんな国の指導者たちも、原子爆弾の殺傷力、悲惨さ、投下から復興への困難さ、そういったことは十分心得ているはずである。逆に言えば、それほどに人類の破滅を招きかねない殺傷兵器ゆえに、競って保有量を増幅させている。そうした背景をちらつかせて覇権を目論んだり、兵力・軍力によって 世界の常識をも覆そうとする野蛮な国が我が国のすぐ近くに存在する。その上で、現在核を持っていない国が核開発でもしようとすれば、自国の友好関係なら黙認する。もしも敵対関係にある国が核開発を試みると、寄ってたかって潰そうとする。それは核兵器の恐ろしさ、悲惨さを心得ているからに違いない。

もしもこの兵器をどちらかが使用すれば、当然相手方も報復をするだろう。その結果はどんなことになるのか、核保有国のリーダーはそんなことも知らない、知ろうとしない、ろくでなしばかりなのだろうか。そうではないことを祈りたい。
核兵器で相手に与えたダメージは必ずや自らも体験することになることを知るべきである。それとも、核兵器の使用を命令したり、核兵器のボタンを押させる上層部は、いち早く地下深くの核シェルターに逃げ込んで身の安全を確保する用意が出来ているとでもいうのだろうか。
そんなくだらないことを想像させる核兵器。全ての国が力を合わせてこの世からなくなるといいね。

子ども達が永久に慰霊の黙とうをを捧げることはあっても、悲惨な現実を目にすることだけはない世の中を祈りたい。  

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