ウォーキングコースにある小さな神社に入ってみた。
いつも通るのだが裏側だから足を踏み入れたことはなかった。
石垣の様子から見るとかなり古い神社だとは感じていた。
二十メートルこえると思える凄く大きな楠の木が境内に聳える
ように立っている。
建物はいつ頃のものか分からないけれど外回りなどから判断す
ると戦後のものだろう。
所謂荘厳さを醸し出している、といったものではない。
しかし石碑を見ると1400年記念と彫られた文字がある。
そして神社の石垣から小道を挟んだ直ぐのところに河野某の
首塚が今も綺麗にされて花や供物がされていて、市の歴史文
化財になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/86/5dd7b63539ae826a9f31d672d0ba60d4.jpg)
境内を行くと広い敷地の真中ぐらいのところの大きな楠の木の
下に大きな石が置かれて、荒神さんが沢山置かれていた。
一ケ所にこのように数多くの荒神さんが鎮座しているのは初め
て見るものだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/e4/f32d83f9a1f72f1497923b2e18fc3a77.jpg)
この柱には「文政四年辛巳(かのとみ)四月吉日と彫られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/8c/bd370c44662582f6c28892587583f408.jpg)
西暦1821年に建立されもので今から196年前になる。
文政とは1818から1829年の間の短い期間だったけれど、この時代
は歴史に疎い私でも名前を知っている人物が沢山いるのに驚いた。
WIKIPEDIAによると司馬江感漢・伊能忠敬・上杉鷹山・
雷電為右エ門・高田屋嘉兵衞・大黒屋光太夫・小林一茶・松平定信
などが文政年間に亡くなっている。
この神社の村では一体どのような生活があったのだろうか。
いつも通るのだが裏側だから足を踏み入れたことはなかった。
石垣の様子から見るとかなり古い神社だとは感じていた。
二十メートルこえると思える凄く大きな楠の木が境内に聳える
ように立っている。
建物はいつ頃のものか分からないけれど外回りなどから判断す
ると戦後のものだろう。
所謂荘厳さを醸し出している、といったものではない。
しかし石碑を見ると1400年記念と彫られた文字がある。
そして神社の石垣から小道を挟んだ直ぐのところに河野某の
首塚が今も綺麗にされて花や供物がされていて、市の歴史文
化財になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/86/5dd7b63539ae826a9f31d672d0ba60d4.jpg)
境内を行くと広い敷地の真中ぐらいのところの大きな楠の木の
下に大きな石が置かれて、荒神さんが沢山置かれていた。
一ケ所にこのように数多くの荒神さんが鎮座しているのは初め
て見るものだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/e4/f32d83f9a1f72f1497923b2e18fc3a77.jpg)
この柱には「文政四年辛巳(かのとみ)四月吉日と彫られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/8c/bd370c44662582f6c28892587583f408.jpg)
西暦1821年に建立されもので今から196年前になる。
文政とは1818から1829年の間の短い期間だったけれど、この時代
は歴史に疎い私でも名前を知っている人物が沢山いるのに驚いた。
WIKIPEDIAによると司馬江感漢・伊能忠敬・上杉鷹山・
雷電為右エ門・高田屋嘉兵衞・大黒屋光太夫・小林一茶・松平定信
などが文政年間に亡くなっている。
この神社の村では一体どのような生活があったのだろうか。
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