宿場名にもなっている石薬師寺は、坂の左沿いにある古刹です。
今は昔、平家追討のため西下した“蒲冠者”源範頼が戦勝祈願にこの寺を訪れた際、鞭にしていた桜の枝を地面へ逆さまに刺したところ、月日が経つうちに根が生え、見事な花を咲かせるようになった──
それが、寺から百メートル程離れた場所にある「蒲桜」で、またの名を「逆桜」(上段写真)。
ヤマザクラの変種だそうで、地面から細い幹がいくつも分かれて伸びている姿は、なるほどそういう伝説も生まれるでしょう。
ちなみに、歴史上では華々しい義経伝説の陰に隠れてパッとしない印象の範頼ですが、当地では文武両道の武将と伝えられ、石薬師寺と蒲桜との中間の距離にある蒲神社は、そんな範頼を祀ったお社です。
さて、再び東海道へと戻り、坂を上って国道1号線にかかる「るりこう橋」を渡ると、庄野宿から二十五町(2.7㎞)の「石薬師宿」に到着。
↑写真左手の本陣跡ともども、道沿いの家はほとんどが新しく建て代わっていて宿場の面影はありませんが、歌人だった佐佐木信綱の生家だけは、資料館としてそのまま残されています。
また本陣跡の並びには、駐車場のゲートや自動精算機などの製造メーカー“AMANO”の創業者である天野氏の生家もあり、実は著名人を輩出している宿場でもあります。
長い坂を下った先で国道1号線に合流し、地下道を通って反対側に抜けると、上り坂となって続いている旧道へと入ります。
再び国道に合流する手前の大谷地区では、近所の人が飼っているらしい黒ヤギさんに出会いました。
国道を十分ほど行くと、反対側の歩道に「采女一里塚跡」の碑があり、
そこから旧道は右へと分かれて、やがて急な下り坂に差しかかります。
これを「杖衝坂」と云い、今は昔、足の病で歩行困難に陥ったヤマトタケルが、佩いていた剱を杖にして上った伝説に由来するものです。
その先で二度直角に曲がってから国道の暗渠をくぐり抜け、内部川を渡ると、住宅地のつづく一部が桜並木となっている小古曽(おごそ)地区を通り、四日市あすなろう鉄道線の「追分駅」で県道に合流して踏切待ちをしていると、昔の軽便鉄道を彷彿とさせる電車が!
わたしのような人種は、こういうのがたまらんのです。
踏切を渡って左へカーブする道の右手には、ここの地名ともなっている「日永の追分」の道標があり、
伊勢参宮道との分岐点であります。
追分過ぎると再び、住宅がつづく町中の道を進みます。
今は昔、平家追討のため西下した“蒲冠者”源範頼が戦勝祈願にこの寺を訪れた際、鞭にしていた桜の枝を地面へ逆さまに刺したところ、月日が経つうちに根が生え、見事な花を咲かせるようになった──
それが、寺から百メートル程離れた場所にある「蒲桜」で、またの名を「逆桜」(上段写真)。
ヤマザクラの変種だそうで、地面から細い幹がいくつも分かれて伸びている姿は、なるほどそういう伝説も生まれるでしょう。
ちなみに、歴史上では華々しい義経伝説の陰に隠れてパッとしない印象の範頼ですが、当地では文武両道の武将と伝えられ、石薬師寺と蒲桜との中間の距離にある蒲神社は、そんな範頼を祀ったお社です。
さて、再び東海道へと戻り、坂を上って国道1号線にかかる「るりこう橋」を渡ると、庄野宿から二十五町(2.7㎞)の「石薬師宿」に到着。
↑写真左手の本陣跡ともども、道沿いの家はほとんどが新しく建て代わっていて宿場の面影はありませんが、歌人だった佐佐木信綱の生家だけは、資料館としてそのまま残されています。
また本陣跡の並びには、駐車場のゲートや自動精算機などの製造メーカー“AMANO”の創業者である天野氏の生家もあり、実は著名人を輩出している宿場でもあります。
長い坂を下った先で国道1号線に合流し、地下道を通って反対側に抜けると、上り坂となって続いている旧道へと入ります。
再び国道に合流する手前の大谷地区では、近所の人が飼っているらしい黒ヤギさんに出会いました。
国道を十分ほど行くと、反対側の歩道に「采女一里塚跡」の碑があり、
そこから旧道は右へと分かれて、やがて急な下り坂に差しかかります。
これを「杖衝坂」と云い、今は昔、足の病で歩行困難に陥ったヤマトタケルが、佩いていた剱を杖にして上った伝説に由来するものです。
その先で二度直角に曲がってから国道の暗渠をくぐり抜け、内部川を渡ると、住宅地のつづく一部が桜並木となっている小古曽(おごそ)地区を通り、四日市あすなろう鉄道線の「追分駅」で県道に合流して踏切待ちをしていると、昔の軽便鉄道を彷彿とさせる電車が!
わたしのような人種は、こういうのがたまらんのです。
踏切を渡って左へカーブする道の右手には、ここの地名ともなっている「日永の追分」の道標があり、
伊勢参宮道との分岐点であります。
追分過ぎると再び、住宅がつづく町中の道を進みます。