大型連休の終ひ日。
午前二時前に地震警報で叩き起こされた直後に強い揺れ。
まったく、「今年の漢字」が樂しみだ。
昨年までこの時期の晩には、自宅の窓から彼方に見ゆる高層ホテルが燦めひてゐたものだが、今年は夜闇に溶けてとんと行方不明。
隣町の驛に隣接する飲食店街は、全て休業してゐる。
しかし灯の消へた通路を掃ひてゐる清掃員の姿に、それでも人件費はかかる現實を見る。
為政者は、「特定警戒都道府県以外の三十四県で、一定の感染防止策を前提とした社会・経済活動の一部再開を容認」云々。
だが、「どこかで集團感染が発生した時点で即自粛」と但し書きを付けてゐるところをみると、實は國民を使った『人体實験』を試みるつもりなのではないか?
正確な数字すら示されない現時点での“自粛”解除が無謀過ぎることは、私ですら理解できる。
抑圧された現状から解放されたいばかりにヒョコヒョコ出掛けるなど、すすんで「検体」になるやうなものだ。
異國におけるそれも、實は同じ狙ひがあるのではないだらうか……?
それにしてもこの一ヶ月、為政者はどんなシゴトをしたのか、その経過を探らうとしたが、足跡がどこにも見当たらない。
私はそんな國民への義務を果たさうとしない為政者の自宅軟禁令など、もとより従ふつもりはない。
だが、常のごとくムダな出費となる外出はしない、そしてムダに外をウロつひてゐるヒマな有象無象など見たくもないから、出控へてゐるだけのことである。
おかげで、内と外の両方にあるやりたい事のうち、内のはうが渉ってとても有難い。
おかげで創作も順調だ。
かつての日常は、まう戻らないだらう。
しかしその原因は、支那疫病以上に人間の為せる業にある。
私は、元に戻らなくてよいと思ふ。
もともと無理な茶番大運動會の強行だの、堂々巡りな疑惑問題だの、そんな話しはウンザリだ。
浮世は支那疫病の蔓延以前から、熱病に冒されてゐたのだ。
元の木阿弥など、おぞまし過ぎる。